壁の言の葉

unlucky hero your key

旅。

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 しつこい咳に悩まされる。
 熱はない。
 しかしこのままでは夜勤で周囲に不快な思いをさせるとおもい、夕刻にドラッグストアへいそいそと。
 生れてはじめて咳止めを購入。
 

 これまで、風邪は基本的に薬に頼らないできた。
 医者に掛かろうがかからなかろうが、完治まで一週間。それが相場だと思っている。


 水分をとって眠る。
 小便して眠る。
 消化のいいものを食っては眠る。
 汗をかけたら一番いいのだけれど、かけなくてもとにかく眠る。

 
 汗も小便もうんこも痰も咳も、そして熱も、
 身体が排除したがっているものは極力出してあげる。
 薬で無理に抑え込まないことだ。


 左側だけときどき耳垂れがある。
 そのせいでプールで水が入ったときのように左耳だけ少し音が遠い。
 たまに茶色い鼻水。
 鼻と耳の穴の奥の方でなにかしら炎症が起きているのだろう。


 食後はネットか『ロバのスーコと旅をする』を読んでいた。
 ロバとともに歩いてイラン、トルコなどを旅した青年の手記である。
 太郎丸というアカウント名でX(旧Twitter)で人気を博しており、昨年に書籍化されたばかり。


 これがね、読み始めると止まらないのよ。
 知らない国、知らない道、知らない動物、人、文化、食事、価値観の相違、…そして危険。
 それら旅の醍醐味がぎゅうっと凝縮されたごちそうだ。


 イランでは不法入国のアフガン人だと思われることが多く、著者は幾度も通報をされて取り調べを受けている。
 先ごろ日本では外国人たちが「外見だけで職質するのは差別だ」との記者会見をひらいていた。
 平和だなと思う。
 イランではなんせ目撃者が通報するのだ。
 イランでもトルコでもむろん旅人に親切にする人たちはいる。
 その一方で、敵意を向けてくる人もいる。
 盗みを働こうとする人もする。
 その落差というかコントラストが実に激しい。


 ロバの生態も愛らしい。
 起きている間はずっと草を食っているし。
 そして発情して雌に振られるや絶望のように嘆き叫ぶのだ。


 性(さが)というものは生き物の原初的な問題であり、
 それゆがえに満たされぬ場合には切実で、
 しかしその満たされぬことこそが多くのオスの宿命でもあり、
 なぜなら強く優れたただ一匹をゴールへと送り届けることだけが『その他大勢(マジョリティ)の精子群』の使命なのであって、
 同時に無念でもあり、
 とどのつまりオスという生き物は、
 それら叶わぬ大量の遺恨を背負うことで存在しているわけで、
 そこがどこか滑稽で、
 儚くて、
 純粋に哀しい。 


 ブルースの在処(ありか)をそこにみた。
 

『ロバのスーコと旅をする』高田晃太朗 河出書房新社


 このアカウントはよく鍵をおかけになる。
 おそらくコメント欄が荒れるのだと思われる。
 想像するに、動物に対するスタンスが日本とはまるで違うのだ。
 使役動物に対する理解など、いまの日本で得られるわけがない。

 愛玩動物と使役動物、

 どちらが幸せかなんてことは一概には云えないよ。
 実際的に他者に役立つ生き方、という幸せだってあるはずなのだ。
 だいいち自分の居場所を「他者・社会の役に立つ」という視点で模索し続けている人は珍しくないだろうに。
 ただ居るだけで無条件に喰わせてやっている、という関係とは別。
 持ちつ持たれず。仕事上の関係だ。
 いわばパートナーや相棒のニュアンスだろうか。


 絆はドライで、むしろ強い。


 さて今晩から現場復帰である。
 バイクで15分程度の距離で単発だという。
 メンバーは自社の顔見知りが二人。
 あとは他支社からの応援が三人。うち一人は何度か現場をご一緒した仲。
 車両通行止め。
 アタマは不肖あたくしである。
 住宅街の奥まった場所なので、地元のひとしか通らないとは思うのだけれど、どうだろう。
 迂回が遠回りになるので説明が面倒になる。
 つまりクレームがあるとすればその点についてだろうか。


 民度のせいにはしたくないのだけれど、実際問題としてクレーム地帯というのがあるわけで。
 工事に対する態度が拒絶的な地域。
 挨拶をしても決して返されない地域。
 今晩の現場がそうでないとよいのだけれど。


 それでも異国のまっただなかよりはずっと条件はいいはず。
 少なくとも言葉は通じるのだし。
 いや、なまじっか言葉が通じるからこそ付け込んでくるのかもしれない。


 たとえば中国は昔からよく『公』がない、と云われてきた。
 どれだけ人が集まっても『私』の集合体にすぎないと。
 ところがいまや日本も公が蝕まれていく一方で。
 やれ除夜の鐘がうるさいだの、どんど焼きの煙が臭いだの、救急車のサイレンがうるさいだとの『私』のいいようにされている。
 

 この公私のバランスの落としどころはいったいどこなのか。
 その見極めは過去を振り返ることでしかつかないはずなんだけれどね。
 膨大な過去問の積み重ねが慣例となり慣習となって伝統になってきたのだけれどね。
 その道はみんなに踏み均されてできた道だ。
 それなのに過去はすべて悪、古いと顧みない風潮が昨今はますます強まっておりますからな。


 どーしたもんだかな。


 自国の慣習や伝統を軽視する人は、はたして異国においてその土地の慣習や伝統を尊重できるのだろうか。
 国際社会だのインターナショナルだのという言葉が流行ったのが30年くらい前だったと思う。
 いつしかその言葉はグローバリズムとすり替えられて。 
 国民の国際感覚ははたして前進しているのだろうか。


 そもそも前進も後進もないとあたしゃ思うのだけれど。

 
 自他の違いをわきまえてこそ交際は成立する。
 そして国同士の交際が国際である以上、個人の日常と国際は地続きだろう。 
 自分の身の回りの問題と真摯に向き合うことが、世界で共感を呼ぶ。
 そんな意味のことを黒澤明が発言していた。
 たしかスパイク・リーの『ドゥ・ザ・ライト・シング』を評してのことだった。

 
 拳をあげて訴えられる運動(活動)の多くに、その手の違和感を感じてしまう。
 それってほんとうに身近なことなのだろうか、と。
 身近なことですよ、と主張することで身近なことだと思い込まされてやしないかと。
 いままで通りであなたの生活になにか問題ありましたか、と。


 民主主義とはみんながちょっとずつ譲り合うことではないのかね。
 その他大勢を漏れなくすべて救いあげることはできっこないのだ。
 けれど、となり同志がお互い様の心でやりくりすることはできる。
 たとえば、
 お隣さんからお醤油をお借りするような風情は絶えて久しい。
 けれど、
 その風情のなかにその他大勢がお互いにちょっとずつ救い合う秘訣があった、と思う。


 本の中で、旅人である著者はやたらにチャイ(お茶)に誘われる。
 喫茶してゆけ。
 その民族性・国民性を単に個人の人懐っこさとか、あるいは教義のみで片づけないことが肝要。
 習慣、慣習こそは先人の膨大な知恵の集積なのだから。


 旅人は、差し出された一杯のチャイからそれら歴史的・文化的背景をすべて感受し切ることはできない。
 けれど、その一杯のふるまいを往古から代々リレーしてきた先人たちは、今まさにそのやりとりを見ている。





 おっと時間だ。
 支離滅裂のまま退散。

 



 では、おつかれ。
 
  
 

 ☾★闇生☀☽