月曜、
関東は大雪に見舞われた。
午後から降りはじめた粉雪はまずは家々の屋根に、
そして夕刻にはボタ雪となって車道を染めていった。
246号は交通規制。大渋滞だという。
この日の夜勤は都内、メトロ現場。
昼ごろには他のほとんどの現場へ中止のお達しがあった。
そんななか自分の現場は夕方になってもなんの音沙汰もない。
カブ通勤をあきらめて渋々電車で出動す。
世間では早めの終業・帰宅が勧められており。
普段よりも閉店時間をくり上げる商店が少なくなかった。
雪はびちゃびちゃのぬかるみだ。
車道にも積雪があり、これでなんの作業ができるのかと出勤してきた仲間たちは皆一様に首をかしげていた。
休憩室ではもっぱら苦笑まじりの悲嘆に明け暮れるばかりで。
そして入れ代わり立ち代わりに窓辺にきてはカーテンの隙間から眼下にひろがる雪景色を確認して落胆している。
わかりきったことである。
それをわかり切ったままに嘆いているのだ。
建設的な意見はひとつも出てきやしない。
けれどなぜかテンションは上がっているらしく、そこが可笑しかった。
そして「中止だろう」「中止だ中止だ」と口々に云うのである。
我々に決定権があるわけでも無し。
この時間まで中止が判断されなかったのだ。
ましてやすでに出勤してしまっている。
それをタダで帰すわけがない。
中止になんてなるわけがない。
路線バスがスタックしていた。
「日当は要らぬから帰してくれ」というつぶやきもあった。
しかしし出勤した以上は人件費が発生する。
カネを出す以上はその元を取ろうとする。
いや、取らねばなるまい。
その日当のために元請と下請けはなにかしら労働の実績を作ろうと画策しているのであろう。
ならば肚を決めることだ。
愚痴っていても埒は明かぬ。
馬鹿馬鹿しい。
重機も動かせない。
作業車も出し入れできない。
外出すらひかえるべきこの事態に二十名も現場に集めてなにがしたいのだろう、スーパーゼネコンは。
事故がおきたらどうするのか。
普段ならば常設作業帯を拡幅して車線規制。それから作業がはじるまる。
夜更けてから中央線変移。
が、さすがにこの日はそれすら危険でできない。
置き場から常設作業帯へと手押しの台車で資材をいくつか運ぶ。
ガスボンベとバーナー、単管。
作業ができないこの日にこれらを移動する意味もない。
事実、ただ移動しただけであった。
同時多発的なその動きにひとまずは誘導四人をつける。
具体的な作業は当然みられない。
ちまちまとした雑工もあえてこの日にする必要もない。
客観的には時間を潰しているだけ。
やっているふり。
そして路面状況はその台車の走行すらあやういのである。
夜半、
唐突に雪かきが始まる。
担当工事区間の歩道の雪かき。
なるほど元請にはその保安責任があるのだ。
なのでこれには納得するほかはない。
この日の主要な目的はこの雪かきにあると気づく。
しかしやはり警備に二十人は要らないだろう。
大雪は先週から予報されていたのであーる。
この事態は予測できたはずなのであーる。
ならば、朝のうちに担当範囲にあらかじめ塩カルを撒いておくべきではなかったのか。
たったそれだけで手間は大場に減らせただろうに。
警備に二十名?
作業員は六名だぞ。
たった四人で済む誘導を、二十人で交代して勤めるはめに。
この雪のなかノーマルタイヤで出勤してきたアホがふたりいると判明す。
職長判断でその二人だけ早めにこっそりと帰す。
べちゃべちゃの雪が路面凍結をはじめる前に帰すにこしたことはない。
雪かきの終了が二時半。
始発は五時。
休憩室ですることもなくだらだらと時間をつぶす。
じっとしているのも無駄だと一部の仲間が始発駅を目指して出ていった。
別の一団は朝まで営業している何かしらの店舗を見つけたらしい。そこへ散っていく。
タクシーを使えばこの日の日当がまるごと飛ぶ。
残った者の多くが休憩室で折りたたみいすをならべて仮眠をとろうとする。
スマホも飽きる。
会話も途絶える。
体はむろん痛くなる。
精神がしなびていく。
目を閉じる。
誰かがずっとため息ばかりがついている。
苦痛だ。
精神的に苦痛だ。
いやんなっちゃうのだけれど、
その最善の対処法は『諦める』ということなのだ。
しかしそれってはたして健全なのだろーか。
諦めきれない連中は愚痴りながら罵りながらイライラを募らせていくばかりで。
それもまた聞くに堪えぬのだけれど。
かといってベテランの諦観は人が出来ているように見えて心のハリを失ってこそではないかと。
諦観によって自分をTPSゲームのように愉しめるのならまだしも。
この大雪は先週末から予報されていた。
それでも中止をしないだろうことは、メトロ現場の性格を知る者たちには予想できていた。
何人かの常駐者が先週末から休日届を出している。
当日の昼になって体調不良を理由に休んだ常駐者までいる。
そのせいで急遽代打で引っ張り出された仲間がいて。
自分の担当現場は昼には中止が決定され、のんびりとくつろいでいたところへ急の出動要請だ。
まあ、恨むわなー。
出動した者たちは休んだ彼らを『逃げた』と嘲笑していた。
さながら敵前逃亡の如し。
逃げた連中は、きっとその誹りもふまえて休む決意をしたはずだ。
びちゃびちゃの雪のなか、安全靴のなかまでぐしょくじょに濡れながら朝まで働くなんてあほらしいわいと。
仲間に後ろ指をさされようが知ったこっちゃない、とする太々しさ。
彼らはのおのおと鼻毛を伸ばして明日からの現場に復帰をすることだろう。
まあ、
そういうもんだわな。
社会も、人生も。
仲間に投げて逃げたほうも、
惰性で引き受けて愚痴りながら罵りながら不承不承に勤めるお人よしも、
どちらもかっこわるい。
積極的か消極的かの違いこそあれ、逃げは逃げだ。
とはいえ、
昨今は精神論の疎まれる世の中だ。
逃げるが勝ちという価値観もまたしぶといわけで。
世知辛いのお。
そうなると、
どちらに転ぼうが、
損得や貧富とは別にした『かっこいいかかっこわるいか』を計るモノサシがものを云うと思うのよな。
しあわせの基準と云ってもいいし。
このモノサシを、自前として持っているかどうかなのだよ。重要なのは。
これ、あながち馬鹿にはならんのだなあとあたしゃ思うのですよ。
損得、貧富、優劣、苦楽。
どの基準も比較すべき他者に頼っている。依存している。
そしてそこに生じるのは大なり小なりの妬みであって、
妬みの結びつきによって構成される世界に、果して仕合せなどあるのだろうかと。
云わずもがな、上には上がある以上その競争・対比に際限はない。
仕合せの秘訣はおそらくそこにはないのだと思う。