こうなったら、この事態にでもならなければやれなかったことをしておこうじゃないかと。
あたしゃいっそ充実した籠城生活に挑んでみようと企んでいる次第であーる。
危機感を感じていない人たちも、間違いなく令和史の初っ端に記録される日々なのだと自覚すれば、籠城企画も楽しめる。
むろん若い人のなかにはその若さあまってトイレ舐めたろとかいう、あの手の露悪趣味に傾きがちだろうけれど。
なんせ能力も技術もアタマすら使わんでできるものね、あの手の企画は。
たとえば有事の際のシミレーションとしてひそやかに過ごすのもいいし。
積みっぱなしの本をかたっぱしから読破するとか。
今あるものだけで部屋の模様替えするとか、掃除するとか。
ひたすら筋トレしてみるとか。
禁酒・禁煙のきっかけにしてみるとか。
スター・ウォーズを時系列で全巻視聴してみるとか。
未クリアのままとなっていたゲームのクリアに挑むとか。
ちょうどあれだな。松本人志の『 しんぼる 』のような状況にあると考えれば、この事態は神様からの『 お題 』だとみなせやしまいか。
部屋の中にあるものだけで遊び倒すとか。
束縛の加減を明快にせよ、と政治にモノ申すのもこの事態に限っては意味がない。
不毛だ。
外出禁止? スーパーはいいの? じゃコンビニは? ゴミ出しは?
だなんて。そんなことまでお上が決めるのを待つのかよ。
経済が……。とあんたが嘆いてどうなる。
考えようよ。
まず、未体験なのだから対応に具体策が出せるはずがないということを確認し、
これまで対権力としてあたしらがのさばらせてきたいわゆる『 自由 』とかいうものが、このケースではその障壁になってしまっているのではないかと、しっかり見ておこう。
権力が自由様のお顔をうかがいながら後手後手を繰り返す。そういうふうに育ててきてしまったのだ。
そもそも選挙というものをそういう風潮で仕立ててきたわけで。
いざというときの権力者選び、という認識ははたしてあたしらにあったのかと。
危機的状況というものに正解は無い。
なのにエリートと言われるお勉強のできる人たちはとかく『 正解 』を出したがるもので。
そこに甘えてあたしらも即時正解を欲しがる。
「 じゃあどうすればいいんですか? 」とのたまう口で、何が自由か。なにが個人か。
正解を出す訓練を勝ち抜いてきたエリートというものは、平常時を平常のまま運転しつづけるための能力に長けた人々なのだ。
正解ありきで作られる問題を解くプロ。
そんな彼らが答えの無い未体験の危機的状況への判断力・対応力に必ずしも優れているとは限らないと思ふのだが、どーよ。どーなのよ。
闇生