この事態であらわになったことのひとつに、あたしらのパブリック・マインドの程度がありますね。
恥ずかしいくらい、まる出しになってもーた。
自粛では甘い。うろうろ出歩くアホがいるからもっと厳しくしろ、という声は大衆による大衆への不信のあらわれだ。
強制も要請もされなくても、自主的な心構えだけであたしらは充分にこの苦難を乗りきることができる。
そうお互いを信じることができるのなら憲法だって、戦勝国製のをいったんご破算にして自前で作りなおせばいい。
なんら問題はないでしょう。
今の憲法が正解であると信じるのなら、そっくり同じような憲法が、けれど『自前』として誕生するだけです。
でも、心の底では信じられないんだよなー。あたしらは。大衆民主主義というやつが。
きっと暴走するアホが大勢いる、と。
この、大衆が大衆を恐れるというのは、ある意味健全なことではないのかな。
民主主義という馬を乗りこなすには、暴走を食い止める手綱がいる。そしてその手綱は自己への懐疑から作られる。
ただ、手綱さばきには工夫がいる。
いたわりも、強制も、お馬さんのご機嫌をうかがいながら、いろんな加減が試されなくてはならない。
公共心など欠落していようが、大衆は大衆だもの。
ただしこれは意識しておくべきだとおもうのだけれど、
公共への意識が低いのならば、それは個人のなりそこないであって、ただの私人のあつまりにすぎない。
そんなのにのさばられたんじゃかなわない。
公共心あってこそ、やっとこさ個人だろう。
個人の自由を叫びたいのなら、自己の外殻を成すパブリック・マインドをまず備えんとね。
コロナ。
せっかくの人類共通の敵ではないか、と思ふ今日この頃。
今夜は、久しぶりに夜勤。
闇生