深夜。
ふと思い出し、持ち出し袋へ入れっぱなしにしてあったポケットラジオを取り出した。
スイッチを入れてFMに。
偶然にもどこかの局にチャネルが合っている。
ジャズが流れていた。
セロニアス・モンク。
ならばこのテナーはチャーリー・ラウズだろう。
どうやらアナログレコードの特集がされているらしく。
サブスク世代の若いミュージシャンたちが、それぞれにジャケ買いした『当たり』を紹介し合っている。
セロニアス・モンクを「ジャズ的なピアニスト」などと云っているあたり、
キース・ジャレットのソロライヴの曲名がすべて記号的なのは完全即興であるということも知らないあたり、
詳しくもなさそうなのがまた微笑ましく、そしてそれがかえって新鮮でもある。
しばし、流しっぱなしにする。
わがポケットラジオはモノラルで。
それ故か音の具合が古いジャズに妙に合う。
音楽にとって音質は決してクリアなほど良いというわけではない、とかねてより思っているあたくしだ。
映画の画質についても同様に考えており。
透明度、鮮明度ともに無数の加減・具合があって、そのどれを選ぶのかは作り手次第でもあるし、また視聴者の再生環境にも左右される。
最終的な楽曲との相性ともあいまって、そこにそれぞれの自由がまたひとつ立ち上がる。
ましてや墨絵の国ではないか。
カラー時代にあえてモノクロで映画を撮ることは珍しくはないわけで。
九十年代に活躍したレニー・クラビッツはビートルズが使用したミキサー卓を使って当てたのであるし。
現代でも真空管アンプや戦前のマイクを好んで使用するミュージシャンは少なからずいる。
そしてこのたびの番組だ。アナログ盤特集ではないか。
ラジオを通じて音楽に触れることの醍醐味。
それは、なんだろう。
自分で選曲できないことだ。
自由がないのよね。
たしかに選択の自由などといえば聞こえはいいさ。
んが、
実際はちっぽけで未熟で偏った高々あたくし程度の世界の中だ。箱庭だ。そのなかでの選択だ。
そこいくとラジオならば箱庭の外を覗かせてくれる。嗅がせてくれる。
食わず嫌いにしていたジャンルであっても容赦なくかかるし。
たとえばロックが好きであったとしてもテクノも演歌も歌謡曲もジャズもクラシックも民謡も、否応なしに流れてくる。
それが未体験の音楽、つまりが新たなジャンルとの出会いとなる。
いつしか箱庭の塀は崩されて、
そこに新たな景色が展開されていく。
なんせあたしが実際にそうだった。
好きなミュージシャンがDJを担当すると知り、毎週その番組を聴き、そこで紹介される音楽に触れた。
幸運なことに彼はありとあらゆる音楽をかけてくれた。
自身のあつかうジャンルばかりではなく、そして最新のものばかりでもなく、様々な時代の様々な国のものをかけてくれた。
ときには投稿される素人の下手くそな作品までとりあげて、その独自な切り口を褒めまでした。
歌謡曲はダサいと思い込んでいたあたしの蒙を啓いてくれたのも、彼だったと思ふ。
チャンネルを離れる。
ノイズの雨のなか、ほかの局を探してまわる。
まもなくヒットして地元にFM局をみつけた。
雨宿りよろしくしばし耳をそば立てる。
電波は弱々しく、聞こえてくる声は雑音まじり。
思春期のころ、
郷里のラジオ局の深夜放送に、詩と短編の投稿を募集しているコーナーがあった。
夜な夜なあたしゃ部屋にこもり、勉強をサボってこそこそと投稿に励んでいたもので。
採用されると女性アナウンサーがそれを朗読してくれた。
そのときの嬉しさと、それを誰も知らないという愉悦に密かに浸ったものである。
夜と、
静けさと、
ノイズ混じりのラジオ。
この地元の小さなFM局にも固定のリスナーはいるのだろう。
深夜枠のナビゲーターにもきっとファンがいることだろう。
しかしこんな寝静まった夜中にいったい何人が聴いているのか。
夜空の下、そう思っているであろうどこかの誰かを想像してほくそ笑むのであった。
☾★闇生☀☽