壁の言の葉

unlucky hero your key

空間的、とは。

別役実/舞台を遊ぶ



 よく言われれることだが、たとえば女性が、自分でそのイヤリングを外すとき。
 右の耳のは右手で。
 左の耳のは左手で。
 という具合に、本来はそうするのが一番合理的であるのに、あえて手を交差させることがある。
 右耳のを左手で、と。
 そうすることで、ふるまいが美しく際立つという。


 なぜよ。


 右手で右耳式は、正面の人から見れば、のっぺりと平面的な動きなのであーる。
 のっぺりは、女性の敵だろう。
 ところが、右手で左耳をいじれば、手が体のまえをクロスして立体的になる。
 まわりくどくて合理的ではないが、振る舞いがぐっと際立つ。
 美しさや文化というものは、そんな無駄にこそ潜んでいるもので。


 別役実著『別役実の演劇教室 舞台を遊ぶ』(白水社)を読んで、闇生はそれを連想していた。


 でだ、
 この場合の女性を、ステージに譬えるならば、両の手は俳優ということになる、と思う。
 ステージの中央にりんごが一個あって。
 それを右手(上手)から登場した役者が見つけて、拾う。とする。
 合理的に考えれば、俳優は右のそでからつかつかとあらわれて、そのまま最短距離でりんごを見つけ、拾えば済む。
 けれど、これでは場面が空間的に感じられない。
 のっぺりだ。
 どうすれば空間的か。
 ベタをかますならば、
 右手から現れた俳優が、りんごに気づきつつ回りこんで少し通り過ぎる。
 んで立ち止まり、
 あたりをうかがってから、
 振り返ってりんごを確認し、
 しかるのちに歩み寄って拾う。
 そのほうが、ずっと空間が感じられる。
 芝居がかるとは、そういうことだが、芝居とはその空間を感じることである。感じさせることである。


 また、たとえば二人芝居。
 セリフのやりとりだけなら、漫才のように向かい合ってすれば良い。
 けれども、それでは場面としてのっぺりだ。
 ならば、背中合わせにそれぞれ上手、下手を向いて離れて立ち、時折上体をねじって背後の相方に問いかけるほうが、ずっと立体的ではないか。
 むろん、この場合、設定がいる。
 台所で洗い物をしている夫と、リビングでペットの毛づくろいをしている妻の会話、など。


 テレビでの中継では芝居の魅力が伝わらないと、よく言われる。
 実際、そう思う。
 観劇して、感激して、その感動を誰かと分かち合おうと中継の放映を薦めたりする。
 ところが、あらためてそれをテレビで確認すると、すっかり色あせていてがっかりと。
 げんなりと。
 そういうことが何度かあったのだが、そのわけが、これではっきりした。
 役者のクローズアップは、表情を伝えることはできるが、空間を殺してしまう。
 役者それぞれの体の向きは、空間の全体を考えて構成されているからだ。


 閉じたり、開いたりしながら。


 この本でそれを知った瞬間に、ランディ・サベージというアメリカのプロレスラーを思い出した。
 この人のパフォーマンスは、実に美しかったのだ。
 華があった。
 ヒール(悪役)として派手派手しく入場し、リングの上で対戦するホーガンを待つ。
 その間、ひとりスポットライトを浴びている。
 観客は一旦、このサベージを注目する。
 とそこへ、ホーガンの入場曲が高らかに流れる。
 ホーガンは怒りにふるえ、リング上のサベージを罵倒しながら歩み寄っていく。
 サベージは、ホーガン支持の大歓声に戸惑い、リングを右往左往してうろたえつつ待つ。
 そして、ホーガンがリングに駆け込む、と同時に彼はするりとリングから逃げるのだ。
 その鮮やかさ。
 スポットライトはリング上のホーガンに。
 サベージはホーガンを罵りながら、苛々とリングの外をぐるりと一周する。
 自然、サベージは観客に背中を見せ続けることになり、逆に彼を睨みつつ構えるホーガンは、360°の観客席にその雄姿をお披露目とあいなるわけ。
 ようするに、
 リング上で開いていたサベージは、リングの下で背を向けて視覚的に閉じられる。
 代わってホーガンが、そこで開くという。
 一周まわったところで、お決まりのタンクトップ破りでキメっ。


「よっ。待ってましたっ」


 サベージはきっと、リングを劇場に見立てた空間認識力に優れていたのだと思う。
 この本で別役が指南してくれているのは、演劇の初歩の初歩だそうだ。
 でありながら、読んだだけでは、会得できないとも言う。
 演じて、観て、感じないかぎり空間の使い方の妙は愉しめない、とな。
 けれど、
 負け惜しみで言うならば、少なくとも、これでテレビの見え方も変わるというものだろう。
 そのコントの面白さが、テレビ的なのか、はたまた生の劇場でもおもしろいのか。
 あるいは応用的に考えれば、すぐれた漫画のコマの構図や配置も。


 テレビの観方に慣れ親しんだまま劇場に足を運んだりすると、恐らくはその役者の遠さに戸惑って、魅力を充分に感じられないことが多々あるのではないでしょーか。
 なにかとオペラグラスばっかのぞいちゃってさ。
 けれど、空間の全体を感じるという、生ならではの観方を意識すれば、どうだろう。
 あなたの日常の見なれた景色も、がらりと様相を一変するに違いありません。






 ☾☀闇生☆☽


 いわずもがな、女性の振る舞いも、サベージも、生なら一層ぐっとくるでしょう。
 サベージはそのキメ技、トップロープからのエルボードロップが誰よりも美しかったなぁ。
 跳躍する前に、飛び込みの選手のように、両手で天を指すのだ。
 そのたち姿。
 フラッシュを全身に浴びたそれは、歌舞伎のキメのようで。
 跳躍のラインも高く、遠く。
 野田秀樹は『ロープ』で、プロレスは芝居である、と有り体を見せた。
 なるほど、彼らは「最強」ではなく「最高」を目指すといわれる所以である。