動画でね、最近よく見かけるでしょ。
街なかで突然ピアノが演奏されて、
その演奏に耳を奪われて街ゆく人々が次々に立ち止まり、そこに群れはじめ、
最後には喝采の輪となって大団円みたいな。
これを演者側が自ら撮影する動画が増えてるよね。
あたしゃ結構ああいうの好きで、夜な夜なハシゴしていた時期があったのね。
モブ系サプライズの流れでああいうノリが継承されてきたのだと思う。
だから、偶然そこに居合わせた観客が撮った動画に限って強く惹かれていたのだ。
それでこそサプライズだろうと。
けれど、演者側がそれをするというところにどこか「 どや顔 」を感じてしまってね。
そうと気づいて途端に、萎えた。
素人だと思ったら有名人でした~、的なドッキリ。あるでしょ?
それでネタバレでキャーキャー騒がれて、というやつ。
あれに似てるかな。
つまりが、
最近食傷してしまったなという印象だ。
では、
いったいどういう仕組みがあの場に喝采を生んでいるのだろうかと。
んで、何故あたしは飽きてしまったのかと。
ふと、思ってしまったのよ。
というのも、もはやサプライズではなくなってしまったよね。あの催し。
見かけたらああやって反応しておく、というのがお決まりになった感すらある。
あたしの心がねじれているからなのかもしれないけれど、
いや、ねじけてしまったのだろう。
あれは要するに技術の披露と解釈してしまう。
表現というよりは技術のお披露目だ。
それも、素人にもわかりやすく構成された技術で。
素人には速さとか、強さとか、高さのアピールがもっともわかりやすく、ウケる。
なんせ通りすがりの不特定多数に向けた演奏なのだから。
それを古くから大道芸と人は呼び、親しんできた。
ツウにしかわからないものでは、つまらんのだな。大道芸というものは。
それでいてプロ級の技術だと思わせなくてはならないわけで。
そのあたりに、演奏者の手腕が問われるわけで。
仮に、音数の極端に少ないバラードや、スローでかつピアニシモでベロシティの多彩な表現力を問われるクラシックなどはウケにくいのではないか、
と予想する。
オリジナル曲ならば、さらに難しい。
たとえばサティのジムノペディを夜の街で演奏して、
それはそれでおそらくは都会の喧騒との対比を際立てて美しくなることに違いないのだが、
てか今それを想像してうっとりしまうあたくしだが、
それでモブが輪を成して興奮し、最後に大喝采を生むかといえば、たぶんならない。
感動しても、少し距離を置いて、愉しむと思う。
銀座あたりで居るよね。夜、サックスで懐メロのバラードを吹いている人。
あれはあれで夜の銀座の風物詩になっていると思うし、通りすがりの観光客も足をとめるのだけれど。
あのまったり感を味わうものであって、喝采にはならない。
喝采というやつが、いわゆるプロ級という技術への称賛であるならば、べつにピアノやダンスでなくてもいいはずだ。
我々に観察眼さえ備わっていれば、これ見よがしにアピールされなくとも街なかでプロの技術をみつけることは簡単にできる、はず。
でも、当たり前すぎて、感受性がマヒさせられているがゆえに感動や喝采には至らないのよね。
たとえばどんなに急いでいても第三者や歩行者の横断を優先して苛立ちを運転に出さないドライバーとか。
いちゃもん客に対応しつつ客の列を気持ちよくさばく店員だとか。
そういうのをよってたかってみんなで囲んで喝采したらいいのにね。
逆サプライズだ。
有体にのたまっちまうならば、
あのサプライズはタダであるからこその喝采ではないのか。
タダゆえの集客だ。
そして街なかという「まさかこんなところで」というハードルの下がりきった状況だからこその喝采だ。
砂漠でまぐろの刺身を振舞われたかのような。
それが冷凍だろうが、スーパーの閉店まぎわのパック売りだろうが、あるいは偽まぐろだろうが。
落差でウケている。
そこで喝采を送った人々が、その演者のソロ・コンサートにまで時間を割き、身銭を払ってまで来るか。あるいはCDを買うかといえば、そこでハードルが大きく跳ね上がるわけで。
ましてや他のアーティストたちと同じプログラムで(フェスだとか)演奏して同じ熱量の喝采をうけることができるか、CDがどれほど売れるかは別の問題となる。
本当のプロは他のプロと同じ土俵で戦ってみせるわけであり。
となると単なる技術の張り合いではなく『表現』というレベルが問われる。
少し前、
談志の動画を漁っていて、たしかこんな言葉を聞いた。
圓生は、協会から抜けたのち、地方を中心に高座をこなしていたそうだが、それについて談志は腕がなまるはずだ、みたいなことを言っていた。
その時はどういう根拠で言っているのかわからなかった。
いま思うに、
文楽、志ん生、三木助、小さんら名人の芸に親しんだ客たちからはなれ、落語自体を珍しく思う地方の観客の前でウケたところで、もしそこで満足したら芸の切っ先がにぶるよということではないのか。
世界一のジャズ・プレイヤーを目指す若者を描く傑作マンガ、石塚真一著『BLUE GIANT』。
その続編『BLUE GIANT SUPREME』で、
主人公の大(DAI)はクラブなどで演奏をするかたわら、生活費の為にストリートで演奏をする。
しかし、あるとき彼はもう二度としない、と決意するのだな。
作中ではその理由をつまびらかに解説したりはしない。
ウケなかったからではない。
充分にウケてたし、感動までさせていた。
日銭も稼ぐことができていた。
しかし、世界一のプレイヤーを目指す大としては、路上でウケるように演奏することが、自分に嘘をついているような感覚になったのである。
初見で耳ざわりの良いプレイは、俺のプレイじゃないと。
手っ取り早くその場でウケる演奏をすることと、10年20年経っても記憶され語り継がれる演奏を目指すことは、違うと判断したのでは。
とかなんとか、いいつつ大道芸は大道芸の楽しさがあるし、
大道芸というスタイルでしか表現ではないものもある。
ジャグリングなんてその最たるものだ。
あれはステージの上におさめてしまってはつまらんし、
動画にしてしまっても面白みは半減する。
あれは日常空間で演じられてこそだと思う。
いやなに、
プロのシンガーソングライターを目指すと豪語しておきながら、夜な夜なストリートでヒット曲のカヴァーをカラオケで歌っている後輩が身近にいてね。
上手だし、ウケてるし、多少ファンもついているらしいのだけれども、
まだまだ可能性ある若者が「感動しました」とか「元気もらいました」とかに安心してていいのかよと。
それどうなのよと。
落差ウケじゃねえのか?
リングにあがれ。
おっさん的老婆心から上記のことを思った次第でございます。
闇生