自分の言葉で話せ。
というのたまいが、子供のころからきらいだった。
自分の言葉?
なんだそれ?
のたまうその当人がまず、自分の言葉で話していないではないかと。
言葉に自分のものも他人のものもない。
言葉は共有するものであるからして。
で、そのつなぐ役割こそが言葉なのであろうと。
東西南北、遠近はともかくとして過去から未来へとつなぐ。それが言葉だ。
だもんで独自の言葉が、必ずしもつなぐとは限らない。
てか、独自ではつながらない。
ただね、
こう考えたのね。
方々でのたまわれる「自分の言葉」の「言葉」とはいったいなんじゃろかと。
「言葉」=「言語」かしらと。
独自の言語で話せ。
あほである。
いっちゃってるのであーる。
となると、自分の言葉の「言葉」とは、言語それ自体は現存するものでなくてはならんと。
天才も凡人も同じ言葉を使っている。
ただ、違いは自分のモノにしているか。どうか。
血肉になっているか。
過不足無く、意志の伝達や表現ができているか。
身の丈ぶん、使いこなせているか否かではないのかと。
と考えたときにね、音楽を思ったのだ。
天才肌とされる音楽家の演奏は、独自の音階や楽器を使っているわけではなく。
また、技術的に早い、高い、強い、で飛びぬけているわけでもない。
技術的には、その上というものがかならず存在していて。
にもかかわらず圧倒的に人々の胸を打つのは、お仕着せとしてではなく、自分の『言葉』としてそれをこなしている人の演奏ではないかと。
たとえばマイルスより技術的に優れたトランペッターは、沢山いる。
リンゴ・スターより技巧的な抽斗をもつドラマーも、星の数ほどいる。
セロニアス・モンクより指の動くピアニストなんて、子供にもいるだろう。
トム・ウェイツより音域の広い歌手なんて、珍しくない。
うまい。
と感じる演奏は、そんなこんな意味で、自分の言葉で語っているのではないかと痛感した次第。
無理に背伸びしたお仕着せでもなく、
寸足らずのお古でもなく。
あくまで自分の肉体として、充分に。自由に。
自分の肉体として。
以上、先日他界したプリンスのギターを思いつつ。
この人は、なんの楽器をやっても、自分の言葉だったねえ。
ダンスさえも。
俗にいう天才というものを感じさせる表現者たちは、みんなそれを持っていることを確認す。
道具(言葉や楽器や理論や小道具や身体などいろんな意味で)を、自分のものにしている。
こなしている。
追伸。
同じ楽器を使っても、同じ演奏ができるわけではないのはそーゆーこと。
プロの使う楽器も、その廉価版も、使える音階やコードは基本的にはおなじ。
そういやPrinceって、天才にもかかわらずアゲチンだったねえ。
☾☀闇生☆☽