Twitterで、とある映画について長々とツリーをたてて感想を述べておられる方がいた。
押井守がかつてどこかに書いていた。
映画というものは語られてはじめて映画になるのだ、と。
つまりその長々ととりとめもなく呟かれた映画は、そのツリーによって他者の目に触れてそこで確かに映画となったのである。
しかし大多数の人というのは、見た映画、小説、美術展、風景について語らない。
自分のなかで完結してしまう。
それはそれでよろしいし、個人の自由だし、大切なのだけれど、言葉という形を与えてアウトプットすることこそが恩返しになっているということだけは意識しておきたい。
同時に確認作業でもあるのだし。
むろん、言葉にしたがらない人もいる。
それは言葉という別の形態に型押しすることで、感受したありのままの感覚ではなくなることを恐れてのことだと思うし。
そしてそれは、或る意味正しい。
……かどうかもまた、アウトプットしてみないことにはあやしいのだな。
その件については深入りすればするほど堂々巡りとなるので、このへんでうっちゃっることにする。
んが、
それはともかく、である。
司馬遼太郎は若い頃、同人のお誘いをうけたことがあるという。
参加するにあたって司馬はこういう条件を提示していた。
会員同士で互いの作品を批評し合わないこと、と。
これもわかる。
痛いほどわかる。
批判だろうが賞賛だろうが、お仲間どうしの狭いコミュニティ内でああだこうだ言ってもしょうがないと。
で、これもまた物書きの性(さが)なのだが、いわば身内で批評し合うとその身近な批評家の言葉に作風が引きずられる恐れがある、といった意味のことを司馬は書いている。
その身内の批評家に褒められようとする。
むろんお仲間であっても褒められればうれしいし、またそんな言葉にこそ作り手は飢えてもいるし。
逆に批判されれば直接殴られたかのように凹むものだ。
語られることで作品は作品となることは間違いないが、その距離感こそ大切ではないかな。
とはいえ司馬もその奥さんがもっとも身近な批評家でもあった。
スティーブン・キングもおなじ。
村上春樹もそうだったような。
人によってはそれが編集者でもあるだろうし、そういう信頼できる客観者は必要だろうけれど。
というか、それが支えになるのだろうけれど。
身内内での批評のし合いはあまりよろしくないことが多いとは思う。
視野がせまくなる。
こういうたとえはどうだろう。
学校の中で誰もが認める最もひょうきんで面白い奴というのは、誰の記憶にでもあるわけで。
しかしその子が、となりの学校でもウケるかどうかというと、そうはいかない。
ましてやプロとして通用するかというと、なかなかどうして。
世の中、あらゆるジャンルは細分化されてゆく傾向で、これは止まらない。
それぞれの分野のコミュニティは狭くなる一方だと思う。
んで、
そのマニアックで居心地のよい狭い世界で愉しくやるのも手といえば手なのだが。
風通しはほしいなあ。
なにが言いたいのかというと、
小説投稿サイト。
感想の書き込みにログインが必要なところが多いと思う。
となると書き込みは同じ利用者。それも書き手側でもある読者という格率が多い。
実際にその感想のやりとりを見ていて思うのだが、同人誌内での褒め合い、けなし合いに似た空気を感じる。
狭いのよ。
語るなら外へ外へと語ろうぜ、と。
身内でちまちま言い合っていても埒が明かない。
言葉は繋ぐために、それも時間的に、地理的に、その他異なる遠くのものへつなぐためにある。
たとえ批判であってもだ。
語るなら、遠くへ。
遠くへ。
どうかひとつ。
☾★闇生☀☽
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