音声のみのYoutubeチャンネル『東野幸治の幻ラジオ*1』。
アップデートしていこう、の回は考えちゃうね。
いまや女性芸人の容姿ですらネタにしてはいけない時代になり。
そうなるといずれコントの変顔キャラも(あい~んなども)、駄目になるでしょう。
ミスター・ベーターのようなのも、外国人差別につながるとかで駄目になる*2でしょう。
そうそう、バラエティ番組のなかの浜田の黒人扮装ですらあれだけ騒がれたのですから。
かつても書いたけれど、
米国のサタデーナイトライブという人気長寿番組では、その辺の差別感覚につしいて挑戦的なコントを作っていた。
特殊メイクで白人になりすましたエディ・マーフィーが、街なかを歩くドキュメントスタイルのコント。
黒人乗客がいないとわかると車内でどんちゃん騒ぎを始めるバスとか。
白人にだけ無料サービスをする店だとか。
盲目のスティーヴィー・ワンダーに『誰にでもよく撮れるカメラ』という商品をモニターしてもらうとか。
贖罪をはらすために、白人が黒人に鞭打たれ、こき使われることができる綿畑農場とか。
フランスのドラグクイーン文化を追ったドキュメント『パリは燃えているか』。
このなかで、ドラグクイーンたちが年に一回催す男装のコンテストを紹介している。
男の肉体をもって生まれながら、言葉使いから衣服までショーアップされた女装者として生き、そしてまた、このコンテストのために男らしさを競うという。
自分の考える男らしさを懸命に考察し、衣装を考え、歩き方を練習して大会の望むのだが、
ライバル店のスタッフたちから怒涛の罵声をあびるのだな。
「ぜんぜん男に見えないわ!」
「おかままるだしよ!」
ついには罵られて泣き出してしまう出場者もいた。
女性らしさを(プロとしての誇張した女性らしさも含めて)求めて生きて、男らしさから遠ざかろうとしてきたのにこの時だけは「おとこらしくない」と言われて泣いちゃうのだ。
あたしって駄目だわ、と。
ああいうのも、なんだ。男らしさ女らしさという概念すら捨て去ろうという流れからすると、どうなんだ。
地均(じなら)し。
地均し。
どこまでも平らな世界。
影が無いなら光もない。
あたしとしては、
差別というのは決してなくならないし、差別には意義もあると思う。
ただし、
貧富や美醜、優劣といった二極化しか上下の関係ではなく、
ゆるやかに螺旋を描き、三竦み(蛙<蛇<ナメクジ<蛙の関係やジャンケンのような)の関係性であるのが望ましいと思ふ。
価値観の一切を真っ平に均してしまっては、いつか反動がくるし活力が損なわれる。
免疫も培われない。
どんなに真っ平にしたって雨は降るし、
生老病死の苦痛からは避けられないし、
大恐慌も天変地異も起るときには起る。
芸人の話にもどるけど、
ようはあたしらだって普通の人間だ、ということでしょう。
女性芸人が恋愛観とかマジ顔で話すのが、どうも昔から苦手でね。
そのあと何を話しても、コントやっても笑えない。
というと、では男性芸人ならありなのか、というとそうでもない。
まだ風俗行った話とか、シモネタなら笑えるが、マジ顔の恋愛話は男性芸人であってもやはりつまらない。
私生活をそのまま商品にするのも、どうなんだろ。
家庭の味を出す店と同じで、ひとりもんには使い勝手がよいだろうが、結局はプロの味を出す店あってのものだろう。
ま、つらつらと。
今晩も夜勤。
ではでは。
※追伸
そのうち『人間らしく』とか『日本人らしく』も、生物平等愛や人種平等の観点からダメになるのだろうか。
それぞれの職業もそうなるのか。
プロらしくとか、
武道家らしくとか、
大人らしく、
子供らしく、もNGで。
「昭和だなあ」も差別になり。
「アナログ人間」は侮蔑用語となり。
なんたら女子の肩書もペケ。
そのうち自分らしくまでアウトになりかねない。
他人はどうでもいいのかっ、と。
ま、大嫌いな言葉ですけれどね。自分らしく、を自分でのたまう風潮。
自分の目で自分の目を見ることができないように、自分のことなんか自分で把握できるはずがない。
まやかしの言葉だ。
己の具体化、具象化によるアイデンティティを叫ぶ一方で、徹底して区別も差別もをなくす抽象化に励むという矛盾。
めんどくせえな。
闇生
*2:異様に高い付け鼻とネイティヴ・アメリカンをステロタイプに真似した「どんどっとっと」のギャグ。