壁の言の葉

unlucky hero your key

くっつきたい。

 職場の先輩のつよーい薦めでアニメ『昭和元禄落語心中』シリーズを観ている。
 現在、第5話を終えたところ。
 舞台は昭和初期あたりの落語界。
 後に名人とうたわれる八雲の少年期~少壮期を、同門の初太郎との友愛を軸に描いている。


「BL臭が強いからね」
 という断わりをあらかじめ頂いての観賞とあいなった。
 んなことより落語をアニメにどう変換するのか、その演出への興味のほうがあった。
 噺を、作中劇として別時空へもうけるのか。
 あるいは、複数の役を演じている噺家を、実況中継のようにそのまんまずどーんと正面から撮るのか。
 カット割りでいくのか。
 要は役の演じわけと噺のなかの空間・位置関係をどう演出するのかという、そこ。


 ただこれは本当に難しい話でね。
 噺を効率的かつ効果的に伝えるのだけが目的ならば、その世界を別時空にしてしまうのがもっとも簡単でわかりやすいのだろう。
 けれど、この物語の場合は技量を研鑽中の噺家がメインだもんで。
 たとえるなら出来上がった料理ではなく、あくまで厨房の料理人がメインといった塩梅である。
 上手さ加減、下手さ加減も描きわけねばならない。
 むろん声優の技量におおきく拠ることになるのだが、そればかりを取りあげてもどうなんだ、ということだ。
 カミシモの切りかたや所作はむろんのこと、ヴィジュアルとしての演技力も、またその優劣の差や成長の度合いも物語の主成分となるわけ。
 どうすんだ、演出よ。


 などと構えて観はじめてはみたものの、夜勤明けの朝酌ついでにやっつけている。
 実写や芝居などの『生』をつかっての表現というものは、画面は基本的に『引き算』で考えるのではないか。とあたしゃかねがね解釈しているのだが。
 つまり、ほったらかしでやっちまうと無駄や汚れや雑味がおっぴろげになってしまうと。
 有体に言っちまえば、すっぴんのようなものだ。
 これに対してアニメはつねに白紙から始まることを考えても、足し算で構成される。と考える。
 シミもソバカスもシワも白髪も剃りのこしのヒゲも鼻毛も、描かない以上は、存在しない。
 んが、
 双方とも取捨選択が要となっていることに変わりはなく、足し算式の構築であっても、なにを足さなかったかという意識が重要になってくると思われ。
 とどのつまり、あたしゃ省略のことをいっているのだが。
 省略された状態と、あらかじめ何もないという状態というのは、まったく違うものであると。
 省略とは、そこに無いのに、他の何かにその役割を補われていたり、兼ねられていたりすることをいうのだろう。
 まあ、アニメという表現手段自体、絵と絵の間をすべて省略でつなぐことで成立しているわけで。
 それは厳密にいえば実写であってもそうなのだろうけれど。
 何を省いたか、という意識はコマ単位で精査せざるをえないアニメの方が強力であると思われる。
 して、その省いた『間』を、どう想像させるか。
 導くか。




 そいつで客をどう煙に巻くか。




 などとつらつら考えつつ缶チューハイをやっていれば、まあ、んなこたどーでもよくなってくるわな。
 ぬはは
   はは。
 気づけは、アニメのなかでは部分的にしか取り上げられない噺を、全編で堪能したくなって、Youtubeをはしごしている次第。
 料理はたくさん出てくるのだが、どれもこれも味見だけでおあずけをくらったようで、ね。
 食べちゃうよねー。
 結局てめえのi-Tunesを開いて、ライブラリから落語をクリックしている。
 名人になった八雲の話しっぷりからあたしは圓生を連想して聴きはじめたが、布団に潜るころにはやっぱ志ん生に落ちつくのだな。 
 志ん生エンドレスでおやすみなさいである。


 

 ところで『BL』云々。
 この第五話では、主人公たちが芝居を興行する。
 演目は、女装がポイントとなってくる『弁天小僧』。
 だもんでその『BL臭』なるものは、確信犯。あらかじめ仕組まれたおいにーということになるのだが。
 観賞しながらチェン・カイコー監督作の『さらば、わが愛 覇王別姫』を思い出していた。
 幼少期から友愛を育んできたふたりの京劇俳優が、動乱の中国現代史にもまれにもまれて生きていく。そこに生じた愛憎と哀しみ。
 これまでに観た映画のなかでも屈指の名作であると、思っている。
 美術品のように美しい映画だった。
 当時はBLという概念自体が、世間に無かった。
 いま観直せば違った感触を抱くのだろうか。
 というのも『仕立屋の恋』という映画が、むかし話題になって。
 のちに名匠と謳われるパトリス・ルコント出世作であるのだが。
 この主人公を、いまある概念で言ってしまうと単なる『ストーカー』にほかならない。
 当時はそんな言葉は、少なくとも日本の日常にはなかったはず。
 いま、ストーカーの概念をもってこれを観直すと、まったく質感が違ってしまうのではないのか。




 ちなみに、BL。
 その美学を究極の形でわかりやすく解説すると、天井と床の関係なのだそうな。
 見つめ合い、強くひかれあってはいるものの、くっついたらそれでおしまい。
 なるへそ。
 成就しないとこがミソなのだ。
 ならば名作古典『ロミオとジュリエット』となんも変わってない。
 くっつきたいのに、くっつけない。
 くっついたら野暮チンだ。
 ならば名作『さらば、わが愛』も、いまのBLファンの心を揺さぶるのではないのかと。
 うむ。








 なにが「うむ」だか。



 ☾☀闇生☆☽