壁の言の葉

unlucky hero your key

ビーフカレーの和。

井沢元彦



 
 折り紙とビーフカレー
 井沢元彦はこのふたつを日本の文化を象徴するものとしている。
 折り紙は非常に制約の多い遊びであり、芸術でもある。
 決して糊やハサミを使わずに、正方形の紙を折ることだけで表現していく。
 この、不合理なまでの制約。
 愛すべき、ちまちま感。
 不自由をもうけることで遊び(自由)を得るという発想は、日本ならではのものかと。
 しかもそこに使われる空間はすこぶるちっこいわけで。
 おそらくは俳句や短歌や盆栽も、そういう世界観によるものではないかと。
 あたくし的には、商売柄、緊縛もまたそうではないかと思う。


 いやん、


 つったって思う。
 ボンデージと違って、あくまで縄にこだわって制約を文化にしてしまうのは、日本ならではのものだ。
 縛師、故明智伝鬼の海外でのショーが受けたのも、それによるところが大きいのかと。


 ようするに折り紙は、日本文化のオリジナル面を象徴していると。


 そしてもう一つの象徴がビーフカレーだという。
 洋食であるカレーが、なにゆえ日本文化をあらわすのかというと。
 そもそもカレーのルーツをたどれば、あたりまえだがインドということになる。
 そして、その人口の大半がヒンズー教
 で、このヒンズー教徒にとって牛というものは、神の使いであって、神聖な存在なのである。
 よって、その肉を食すなどということは、アンビリーバボー。
 人肉を食べるにも等しいというわけ。
 そりゃあもうクジラどころの騒ぎじゃないのだな。
 ましてやそれをカレーの具として煮込んで食うのだから、インド人もびっくりだ。
 インドの牛なら、なおのことそうだろう。
 その残虐性は、レクター博士の比ではない。
 この、そこにある宗教性を脱がして、自分たちの文化に取り入れてしまう日本人の柔軟性を、ビーフカレーは象徴しているのだという。
 究極の混浴と言おうか。
 あるいは無節操とも言おうか。
 それはクリスマスを祝って、除夜を告げる寺の鐘に聞き入り、明けて神社に詣でるという我々の性質を、端的にあらわしていると。


 たとえば、
 七福神のメンバーにも外来の神が入っている。
 その出自も我々なりの解釈にして、脱がして、洗って、
「お入んなさい」
 と仲間にしてしまった。
 イエス、混浴。
 なんていい奴だろうか。
 仏教だって、儒教だって、そうやってビーフカレーのようにアレンジして仲間に入れてきたのだ。
 悪く云えば、本場のオリジナルには忠実ではないのだが。
 ともかく、
 それができるのは、災いをもたらす神をも含めて、八百万の神々としている『和』の下地があってこそ。
 異国のサンタをこうまで敬愛できるのも、それがため。
 そんな福の神もあっていいよねえ、と。
 我々は無意識にこの『和』を信じているのだ。


 一神教ならば、こうはいかないだろう。
 それゆえに宗教戦争が途絶えぬのだし。
 そして、だからこそリヴァイアサンなんていう考えが出てくるのではないだろうか。
 グローバリズムなんていうのも、最強国の価値観で国境を取っ払い、地球をまるごとそれで一色塗りにしてしまえと。
 そんな概念が底にあるのに違いない。
 お隣の、北京を至上とする『華夷秩序』もまた同様で。


 そこへ行くと我々は下地に『和』を持つお人よしだ。
 混浴だ。
 だから、グローバリズムと聞けば、それぞれの特性を残したままでつながれると考えたがる。
 てか、考えたいが。
 現実はそうはいかんのだな。
 犬肉もクジラ肉も認めんぞと。
 仮にヒンズー教的価値観をグローバルに押し通すならば、肉牛なんぞ悪魔の所業のはずなのだが。


 んで、
 思う。
 じゃあこの我々が最優先する『和』って何よ。
 孔子の言葉にこんなのがある。


 君子は和して同ぜず
 小人は同じて和せず


 徳のある者は互いの違いを認めつつ、その場に調和する。
 が、安直な同調はしない。といったところだろうか。
 して、小者は簡単に狎れ合うが、腹の底では舌を出している、と。
 わが国の国際的ふるまいを思いあわせると、まことにもって耳の痛いお言葉ではないか。
 けれど、この『和』は、儒教では決して最上の価値観ではないというのだな。
 そこへいくと、日本人は和を何より尊ぶ。…と言われる。
 その『和』のイメージで浮かぶのは、仲直りだろう。
 たとえば主張や価値観の違いで喧嘩する。
 で、やがて仲直り。
 どちらかが敗北を認め服従するというのではなく、まあ、いいじゃないかと。
 済んだことだし、お互い様だろうと。
 飲もうよと。
 飲んでしょんべんとして、水に流しちまおうぜと。


 けれど、外国ではそうはいかないね。
 交通事故を起こしても決して謝るな、と言われるように。
 謝っても、お互い様にはならない。
 陳謝は、それすなわち敗北なのだ。
 その敗北は、絶対に水に流してはもらえない。
 つれしょんにはならない。
 永遠に敗北者として振る舞い続ければ、なごやかな関係は保たれるだろうが。
 そうもいかない。
 そのズレが、日韓のズレにもなっていて。
 こちらが何度謝っても、あちらでは決して済んだことにはならないことの仕組みは、まあそういうことだと。
 謝罪はあくまで敗北。
 何百年経とうが。


 それは、世界各地の宗教間のいざこざを見れば明らかなように。


 とどのつまりが、日本製の『和』に、普遍性はないぞと。
 ビーフカレーをインド人に振る舞ってはいかんのだと。
 であるのにもかかわらず、本来『平定』に近いピースという概念に『平』という形で、を組み込んだのだ。
 我々は。
 その上で、な〜む〜と世界平和を願っちゃったの。
 しかもこの平和。
 日本人特有の『穢れ』への忌避がふんだんに入っているから厄介で。
 古来、日本人は死を穢れとしてきた。
 そしてそれに直面する軍隊や警察を、


 えんがちょ、


 蔑視してもきた。
 歴史的にも政権を軍事力で奪取すると、途端に剣を置いて風雅に身をやつす。
 でもって、実際の戦や治安は下の者にさせるようになっていくのだな。
 それが平安時代の堕落を、
 そして、その「他人にやらせる」という流れの結果として、足軽を生んだりしてきた。


 これも日本特有だ。
 たとえば英国なら、その歴史的戦利品を大英博物館に並べ、王族はみな兵役をこなして、軍隊の統率者であることを今でも示し続けている。
 権力を握っても、軍隊を手放さない。
 が、日本はそうしてこなかった。


 実はこの、死を『穢れ』として忌む習性が、日本産の反戦平和の根っこになっているのではと、井沢は言うのだ。
 これまでそれは、外来の左翼思想の流れであるとくくられてきた。
 が、その思想をどこまでたどっても、軍隊への忌避は見られないと。
 ひょっとすると、ゴリゴリの戦闘的左翼運動家が、晩年には決まって、反軍反戦平和にスライドしていく謎も、そこにあるのかもしれない。
 さらに言えば、
 国民の、自衛隊への冷たさもそれを穢れと見なしてのことだろうし。
 米軍基地への寛容もまた、他人に穢れを押しつけようという習性が作用しているとも言えるのでは。




 おっと、
 のたまいが過ぎちゃったね。
 実は裁判員制度を考えて、上のことをつらつら考えていたのであーる。
 摩擦をさけ、協調する。
 この『和』は、悪くすれば


 小人は同じて和せず


 なあなあを生み、
 談合やらの悪だくみに流れることもある。
 その場の流れや空気を尊重する『和』。
 なんせKYなんていう言葉でいまだに再認識されるくらいだ。根は深いよ。


 和と穢れ。


 この日本ならではの習性が、実際の審議の場で、どう作用するのか。
 その辺のところ、三谷幸喜の芝居『12人の優しい日本人』がよくあらわしていた。
 で不肖闇生。この制度、正直、我々には向いてないと思う。
 日本の庶民は、あくまで制度の監視者として、プロを見張るべき立場ではないのかとね。


 プロが、その責務を穢れとして忌み始めた挙句の制度。
 裁判員制度は、そう思えるのだが。




 はてさて。







☾☀闇生☆☽

 
 ちなみに『和』に流されず、私心をすてて主君に諫言するのがサムライ。
 己の死を覚悟の上でのことだから、そこに死への忌みはない。
 だから、欧米受けするのだそうだ。


 ところで、
 それらをふまえたうえで思えば、
 音、とは言いえて妙ですね。
 うまいことつけたものだ。


 以上は、
 井沢元彦著『仏教・神道儒教 集中講座』徳間文庫
 これの感想として。