つづける。
まもなく高速の高架が二本、高々と見えてくるがそれをくぐるまえに『湯の花慰霊碑』がある。
湯の花とは「いのはな」と読み、旧表記は『猪の鼻』で、イノシシのかたちに見えた地形からついたものだったという。
近づいていくと右手に何か地元の催し物らしき空間があって、通りに警察官がひとり立っていた。
道中をしらべるにあたってこの慰霊碑には関心をもっていたのだが、まさかこの日が慰霊祭にあたるとは知らなかった。
そう終戦間際の昭和20年8月5日。
制空権をすっかり奪われた状況下、
複数の米軍機(P-51)が飛来して列車を掃射。
車内にいた民間人(非戦闘員)の犠牲者約50名、負傷者約130名の被害となった。
詳しくは『湯の花トンネル列車銃撃事件』で。
記帳所のようなテーブルがあるが受付の女性は何も押し付けてこない。
静かにほほえんで、汗だくのあたしを気遣うばかり。
こちらから問うとやっと促してくれて住所氏名を記入する。
通常のこの慰霊碑のシステムを知らないあたしは、普段からこうして参拝するものかと思って案内されるままに記入。
おそらく書かなくてもよいのだろうが、
終えると菊の花をひと茎わたされて、慰霊碑のほうへと促された。
スタッフはおそらく遺族会、あるいは地元の有志だろう。
ご年配が目立ったが、学生らしき青年もいたし、若い女性も慰霊に訪れていた。
慰霊碑側からはトンネルを遠く望むだけである。
そしてその日を遠く偲ぶほかはない。
そのポジション担当の語り部らしきご老人が説明をしてくださった。
さすがに現場の写真や慰霊碑を撮るのはためらう。
撮ってもなんら指摘はされないのだろうし、若い人は撮影していたし、そしてそれによってこの事件が語り継がれることになるのだろうけれど、あたしはためらう。
そこをあとにするときに冷えた緑茶のペットボトルをいただいた。
通りで立哨する警察官にも彼らは「水分補給しながらやりましょうよ」とペットボトルを握らせていた。
シャイであげっぱなしの古き良き田舎のやさしきやりとりが心地よく。
恐縮して頭をさげる地元警察官の風情もよろし。
それで立ち去るには、あまりにハンドメイドな集まりではないか。
パンフレットが販売されていたので、購入。
事件の詳細が、綿密な取材をもとに記録されてあった。
証言をこれだけあつめるだけでも相当な労力だったろうに。
峠をめざす。
この高架をくぐったところに道標があるらしい。
んが、見逃した。
道は小仏川に沿ってつづく。
木下沢(こけざわ)橋。
道標にメッセージがあるのは、はじめて見る気がする。
時折、京王の路線バスが通る。
道がだんだん狭くなり、譲り合いのテクと心遣いが必要かと思われる。
お互い様の精神がそうやってはぐくまれる。
都心なら、俺が俺がが横行するからね。
仕事柄、心配になっちゃったよ。
若葉マークつけたのがうっかり迷い込んだら、面倒な道だなと。
中央本線の赤レンガのガードをくぐれば、小仏宿。
道はひたすら川沿いにつづく。
おどろくことにジョギングで坂をおりてくる人が結構いる。
カップルで楽し気におしゃべりしながら走ってるのもいた。
明治帝の御小休所や飛脚の定宿がつらなるというが、通り過ぎてしまった。
ぐぐるでは『雨宿り美術館』なんて気になるスポットもあったりする。
が、まもなく高尾北口からの京王バスの終点『小仏バス停』に到着。
ここから先はしばらく足がない。
このバス停には軽トラの露店式売店があって、
エビスビールの幟がはためいていた。
つまみも作ってくれるらしい。
ひじょーに魅力的なスポットではあるのだがあ。
酷暑を歩いたいま、ここで冷たいエビスをごくごくやらかせば、昇天まちがいなしなのだがあ。
峠越えをひかえる夜勤明けの身である。
次いってみよう!
☾☀闇生★☽