蛇足な補足をかますなら。
あえて「甘やかし」といったのは、そもそも『自分探し』というものが、査定基準を自分においているという意味で。
あれはプレイヤーの自分が、審判まで務めてしまおうという、不毛なゲームなのであーる。
自己嫌悪はどこまでもやさしい。決して致命傷を与えないから。本当に厳しい言葉は、外部から来る。
そう言ったのは劇作家の鴻上尚史。(『孤独と不安のレッスン』大和書房)
ならば、自分にとことん厳しくすればいい、というが、その自分を律する力というものにも、限界があって。
どんなに腕のいい外科医でも、自分の開腹手術ばかりは、無理が生じるように。
簡単にいえば、ラーメン屋の大将が、
「このラーメンはね、厳選したこだわりの具材を、丹精こめて調理したんだ。徹夜して心をこめたんだぞ」
と熱弁をふるったところで、客にそっぽを向かれれば、それでおしまい。
まずいものはまずい。
言ってみりゃ、そこに現状の自分がある。
プロであるということは、審判をゆだねるということで。
むろんそれは自分らしさを捨てるということではない。
ないが、その『らしさ(個性)』とやらも、実はあとから付いてくるもので。
振り返ってそこに残った足跡こそが、それなのだ。
はじめから希望する個性を設計してから歩むものではないだろう。
受賞者たちはきっと、がむしゃらに歩んできたに違いなく。
真実を追求する者には自分探しだ、個性だなんてのは、二の次だったに違いなく。
んなもん、あとから勝手に付いてくるだろ、とね。
☾☀闇生☆☽