己のなかに義憤が沸き起こった場合は、それを注意深く観察しようと思ふ。
危機や孤立した状況でのそれならば、時に心の杖となる場合もあるが。
自己正当化のための義憤ではないのか。
自己正当化のための下位さがしではないのか。
義憤をもとに何かと同調をしようとしてはいないか。
同調のための義憤ではないのか。
数や風潮にたのんだ義憤ではないのか。
そもそも『憤』がいるのか。
『憤』無しでは言えない義なのか。
『憤』なしでは言えなくても『義』なのか。
『憤り』たくて『義』を掲げているだけではないのか。
戦争であっても、お互いの主張はいつだって正義だ。
モニター越しの安全なところで発生した義憤には、より警戒しようと思ふ。
容疑者が取り押さえられ、無抵抗になったにもかかわらず「俺にもやらせろ」とばかりにエスカレートして殴る蹴る締めるをする輩がよくいますよね。
正義をかさに着て、ちゃっかり己の野蛮を発散する輩が。
ギブアップのタッチしているのに、興奮して締めつづける鬼畜が。
あのエネルギーは明らかに『正義』に悪酔いしたものだ。
かつてニュースになった死亡事故もいくつかあった。
戦場でなら、おなじみだよね。
イラク侵攻。アブグレイブ……。
SNSがいまやその現場となっていますな。
ああならないように警戒、警戒。
闇生