当り前の有難みにお辞儀や会釈でかえす。
— Yamio (@Yamio42529836) November 26, 2023
その振る舞いを批判するポストに『いいね』がつく。
その『いいね』もまたちょっとしたお辞儀や会釈のようなものだと思うのだけどな。
横断歩道を渡ろうと児童たちが車の流れの切れ目を待っている。
それに気付いたドライバーが停車する。
横断し終えるや児童たちは振りかえってドライバーにお辞儀をする。
そういう動画がよくアップされる。
歩行者優先なので車が横断者に譲るのはあたりまえだ。
道交法にもあるとおりだ。
だからお辞儀などする必要はない。
とする声は意外と多い。
つまらん世界になってしまったと思ふ。
しかし、そんな批判ポストにも少なからず『いいね』がついている。
この『いいね』こそはお辞儀や会釈のようなものではないのかね。
賛同や同調といった大げさなものばかりではない。かといって反対でもなく多くが気さくに相槌をうったような態ではないのかね。
批判者は自らのポストについたさりげない会釈すらも拒むのかね。
そもそもお辞儀や会釈の意味を謝罪や服従の表明と限定してとらえている人が多いことに驚く。
無論お辞儀は I'm sorry の意味で使うこともある。
けれど日常的には、 Excuse me として使うことの方が多いと思う。
日本語でいえば「すいません」or「すみません」だろう。
すいませんは状況と使い方によって謝罪の意味にもなれば「ちょいと失礼」の意味にもなる。「ありがとう」にもなる。「どうも」になる。
そしてその態度としての現れがお辞儀や会釈となる。
道を尋ねようと見知らぬ人に声をかける。
店員さんを呼ぶ。
混雑した電車から降りようとして声をかける。
屁をこいて、ゲップをして隣席に、
「すいません」 Excuse me.
当然、これは謝罪や服従ではない。
そしてそれはお互いにちょっと頭をさげ合うことで成立している。
「ありがとう」は「どういたしまして」と結ばれて成就する。
双方をお辞儀が繋いでいる。
☾☀闇生☆☽