壁の言の葉

unlucky hero your key

見ている。


 新渡戸稲造が『武士道』を執筆するきっかけとしたのは『日本人の道徳規範はどこから来ているのか』という西洋人からの問いかけだった、らしい。
 たとえば西洋ならばそれぞれの宗教の戒律がそれにあたる。
 けれど日本には全国民が心を一にして信仰する教義のようなものがない。
 創造主のような絶対的存在を戴かない。
 では日本人の道徳観は何を基準としているのだろうかと。
 新渡戸はそれを武士道に求めたのだけれど。 



 日本の場合、体系化され教義としてもっとも広まった宗教は仏教だろう。
 けれどそれもまた宗派さまざまで、戒律も一般では厳守されない。
 むろん儒教の影響もあった。
 けれどこれもまた本場ほど厳守はされないし、日本風のアレンジがされ変容している。
 では神道はといえば、古代からあるアニミズムに深く根ざしているせいもあってかもっとも骨の髄にまで染みついており。よって大仰に体系化・教義化するまでもなく、布教もされずに現在に至る。ましてや殉教者を出すほどの加熱した歴史も持ったためしがない。



 けれどそれなのに、浄・不浄、正・邪の感覚を我々は共有する。
 もののあはれなどの美意識で共鳴する。
 それらはたかだか感覚に過ぎないだろう。
 にもかかわらず、その時代ごとに仏教だのを取り入れつつ途切れずに連綿と続いてきた。
 いただきます、の感覚を当たり前に引き継いできた。
 お天道様が見ている、という羞恥心によって正義や美を見てきた。


 ところが今、その基準が危うくなってきているのではないかと。
 それは絶対的存在を戴かないからこその脆さで。
 これまで融通無碍の境地にあっても決して外れることのなかった浄・不浄、正・邪の感覚が途絶えつつあるのではないかと。


 むろん絶対的ではないからこその強さ、しぶとさというのもある。
 おそらく日本的なるものの強味はそれだろうと思う。
 しかし絶対がないからこそ、その感覚を維持するのは至難だ。
 教育が荒廃し、道徳が忌避され、法律まで蔑ろにされようとしている昨今。
 けっして踏み外すことのなかった基準を乱そうと躍起になる勢力が跋扈している。


 自分を変える、という言葉が持て囃されて久しいけれど、この感覚まで手放して別物になってしまったのでは意味がない。
 もはや自分ですらない。
 自分を、そして正気を維持しつづけるためには根っこが必要だ。
 いわば基準。
 誰も観ていないところでも道を踏み外さぬよう、自分を失わぬように個人が日常からできることはひとつ。



 お天道様が見ている。




 この、昔からあるなにげない言葉。感覚。
 日本人にとってはきわめて重要な、そして決して失ってはいけないセンスだと思う。
 肝に銘じようではないの。




 ☾☀闇生☆☽