…なんてあるでしょうか。」
そんな言葉から映画『イノセンス』は始まる。
監督したのは押井守。
彼はその言葉に込めた真意を、本書で解き明かしている。
以下、
押井守著『凡人として生きるということ』幻冬舎新書の感想として。
長文、失礼。
無差別の凶悪事件でよくいわれるのが、犯人の自己顕示欲。
とその暴走だ。
「有名になりたかった」というあれである。
人間という生き物は、弱いもので、群れなしでは生きられない。
つまりは社会的にしか存在できない。
どうしたって言葉を駆使せざるをえないのが、その証拠で。
なぜなら、群れもいらず、本当にひとりで事足りるのならば、伝達しあえる相手も、キャッチボールする意味も要らないのだから。
ライフラインもない無人島で、せいぜい吠えたり、鳴いたりできさえすれば、それでよいはずだ。
なのに、やはり人間は言葉を使って誰かとつながろうとするのだな。
ばかりか、
「言葉なんていらない」
なんて言葉で、言葉の外側までを確認しながら。
挙句、人間関係、ひいては社会的義務や責任を「えんがちょ」し、たとえ部屋に閉じこもったとしても、ネットやテレビで社会とは接しておきたいと。
どーかひとつ、と。
交際はしたくないけど、触らせてよと。
それほどまでに繋がりたがる習性なのだ。あたしらは。
やらしいことに。
であるからして、おのずとその「社会的価値」を自分に求めずにはいられない。
群れの中の居場所、と言おうか。
ポジション、と言おうか。
この価値なるものは「生存している」という、ただそれだけの価値だけでは半分しか満足できないものであって。
だから何らかの形で群れの役に立ちたがる。
その欲求自体は、正しいさ。
けれど、やっかいなことに、そのためには群れに帰属しなければならないわけ。
しかも、社会という群れは「情愛」や「なあなあ意識」だけでは動かないのだな。利害あってはじめて機能する。
となれば、それへの帰属は束縛の一面もあるから、つまりは「不自由」だ。
だから、若者は社会を拒んで「自由」を選ぶのだと。
ところが、拒んでもとりあえずは生存できてしまうのが、ネットをカナメとしたこの、のっぴきならない現代という名のモンスターなのである。
おやおや、
そうなってくると、社会と自分とを隔てているのが「自由」ということに…。
おかしい。
はて、「自由」とはなんぞやと。
われわれの存在意義を阻む、この自由とは。
社会も対人関係も拒絶して、好きな時間に寝起きし、飲み食いし、親にも干渉されず、という生活はある意味「楽ちん」ではあろうが、はたして、それは本当の自由なの?
はるかフランス革命あたりにぶち上げられた「自由」という概念が、現代に沿って再定義されないままに、都合よく流布され続けるから、我々はそれを指してつい「自由」と思いがちだ。
んが、
本当はそれこそが不自由なんじゃないの、と。
いっそ「自由」を「自在」と言い換えてみてはどうよと。
つまり、社会的にしか存在できないのが人間なのだ。
そうさ、一人ひとりは、ちっぽけだ。
吹けば飛ぶほどにね。
ならばいっそ、言っちまえ。ちんぽ毛だと。
そんな群れを、どれだけ「自在」に利用できるか。それこそが自由ではないかと。
この本で押井はそう言うのである。
そしてそこにこそ「価値」があると。のたまっている。「うる星」のチェリーみたいな顔して。
社会を絶って、部屋のなかでただ楽ちんに生きていることのどこに「価値」があるのかと。
だからあえて彼はこう言い切るのだ。
「若さには価値がない」
若いというただそれだけに価値があるという、デマ。
そんなものに踊らされてないで、本当の価値を身につけろと。
きっと、
自由だの、若さだのというまやかしに引っ張りまわされているうちに、知らず知らずに不自由な「無価値」に陥った者が、乾坤一擲。拒み続けた群れに向かって「ここにいるぞ」と、苦しまぎれに存在をアピールした暴挙。てか愚挙。いや、とんちんかん。それがああいった「誰でもよかった」になっているのかと、闇生は思った。
その「ここにいるぞ」の仕方にも、実際はいろいろあるはずで。
起業するとか。
仕事もそうだろうし。
結婚もまた、社会的参加でしょう。
しかし、いかんせん、スキルの積み上げをサボってきたから、安直で、楽に、最大限の効果を生む方法に落ち着いてしまうのだろう。
それも悲しいかな、模倣で。
大人が流す、いわゆる若さの価値。というデマ。
その大きな要素として必ず、輝ける「未来」をほのめかすもので。
が、有り体をいえば、若者の未来はおっさんであり、おばさんである。
そればかりはゆるぎない。
ならばだ、
おっさんやおばさんの素敵を描かなければ、嘘だろう。
けれど、アニメにしろ、漫画にしろ、ぼんやりとした未来を麻薬のように嗅がせるだけで、具体性を避けてばかりいるのだな。
若さそのものを描くばかりで。
でもって、
「若いうちだよ」と。
けれど、同時にその言葉には、成熟と老いを悲観させられるわけ。
未来を輝かしくほのめかしながら、成熟と老いを絶望させるこの矛盾。
よって、若者は社会人になるのを未来へ、未来へと留保し続けるわけだ。
しっかりと老いながらね。
なら、どうかすりゃいいのと。
そこで押井は、より本能的に、感動的に生きろというのだ。
「すり寄る子犬を抱きかかえよ」
そう、譬えて。
選択を未来へ留保すんなと。
今の選択を優先せよと。
何も選択しないうちは、何も始まらないし、何も始めないうちは、何も始まらないのだとね。
詳しくは、読んでのお楽しみ、にしときます。
押井守。
言わずと知れた(いわゆる)ジャパニメーションの先駆者である。
本書は『新書』とはあるが、厳密で鉄壁の論理構成で、ガッチガチに構築されているわけではない。
だって学者ではないのだし。
あくまで先端を行く映画監督としての経験と立場から、非常に分かりやすい言葉で若者に指南してくれている。だから、現場感覚に富んでおり、そこがなにより愉しかった。
アニメ制作の現場ほど、現代の若者(スタッフ)と大人の事情(経営やスポンサー)の摩擦するところはないだろうと、そう思われるからだ。
他にも「オヤジ論」「勝敗論」「セックスと文明論」「コミュニケーション論」「オタク論」「格差論」を収録しているが、すべてはひとつながりに周到に積み上げられていた。
かく云う、闇生。
エロDVD屋でござる。
だから、社会的な価値といわれると、耳が痛い。
そりゃあ痛い。
しかも独身で、ひとりぽっちだ。
おっさんだ。
だっふんだ。
おっさんの素敵を描け、といったところで、終電に乗り合わせる酔っ払いたちをみるにつけ、はたまた駅員に噛み付いているのを目撃するたびに、どーにもこーにも哀しくなるのである。
皆様もどうか、ああはなりませんように。
☾☀闇生☆☽
追伸。
芥川龍之介の名作『杜子春』。
一文無しの彼は、あるとき仙人に導かれて大金を手にする。
するとたちまち友が増え、酒色に耽溺する。
しかし、金がつきると、友だった者たちは冷たくなり、彼の元を去っていく。
するとまた仙人に導かれて、大金を手にする。
とたんに友がまた集まる。たかられる。
それを友の非情と、読んだ当時は思ったものだ。
が、不幸の原因は、それだけではない。
杜子春の社会的な価値が「財力」にしかなかったということなのだ。
バブリー。
社会的価値とは富だけでも名誉だけでもなく。
とまあ、そのあたりのことも本書は考えさせてくれます。