たとえばUUUMから有名Youtuberが次々と脱退する事案が多々みられたりしますよね。昨今。
各々に事情は違うのでしょうが、大きくまとめればYoutuber側がUUUMと契約していることにあまり旨みを感じない状況になったからでしょうし。
そしてまた、個人でもメジャー業界との対応がやりくりできてしまえるというレベルに達したからでもあるでしょう。
支払うマージンに相当する利便性やお得感がなくなったと。
ようするに群れに所属している意味を感じなくなった。
でね、
少し前に吉本興業の芸人が、ギャラが安いだのといったあの騒ぎ。
例の闇営業問題を援護する形で話題になったと記憶しますが。
この点を比較しても、芸人というのは弱くなったのだなあと思う。
というか、Youtuberのように個からの発信で成り立つ人たちが増えているということなのか。
ギャラが見合わなければ抜ければいいじゃん、とYoutuberなら考えるところを芸人たちはギャラが少ない。あげろあげろと臆面もなく騒ぐ。
芸人の世界にかろうじて『武士は食わねど高楊枝』のスピリットが残っていたのは、いったいいつ頃までのことなのか。
孤猿。
所詮は群れから抜けた孤独な猿をめざしたのではなかったのか。
群れの中にいれば、そしてその群れのルールに従ってさえいれば、たとえその日一日かけて餌をひとつも見つけられなくても、群れ全体としての収穫があればおこぼれにあずかれる。
たった一個のリンゴを人数分で割って、そのひとつをいただける。むろん群れへの貢献度によって配給される量に多寡はあるだけれども。
そこへいくと孤猿は、その日ひとつも餌を見つけられなければ飢える。
それが一週間もつづけば、死活問題となる。
しかし、収穫がたった一個のリンゴであっても、孤猿ならばまるごと独り占めできる。
遠くでリンゴの欠片をちびちび舐めている群れの猿たちに見せびらかして、丸かじりしてみせることができる。
若かりし頃、映画専門学校であたしゃそう教えられた。お前らは孤猿となることを選択したのだと。
芸。
それはそもそも、社会という群れから距離をおくことで成立する分野であったのに、いまや群れのなかのご機嫌取りと堕しているのかもしれない。
専門学校には受験もなく、そのまま群れのルールに従っていれば契約芸人となり、エスカレーター式に表現の場(劇場)まで与えられるのだ。
孤猿としての気概を育むチャンスは、はたしてそのレールの上にあるのだろうか。
落語立川流が寄席というある種の群れから去り、
その家元談志が、弟子たちに自分で仕事をとってくるよう促した一連の流れとその結果を思い出す。
勝手に惚れて弟子入りを願ったのだから師匠が弟子に給料を払うわけはなく、またおまんまを分け合うような群れのなれ合いもそこにはない。
勝手に惚れた側と、ならばそばにいてよいとする関係であり、絆。
なので孤猿である親は、その子らにもまた孤猿として生きていけるよう強いていく。
孤猿であってこそ芸人や表現者にとっての本来の役割「王様は裸だ!」が言え(表現でき)るのだから。
ただし、
その王様は時代状況で変化する。
マスコミやワイドショーが捏造する世論というものが王様となることもあるし、
その背後にスポンサーでもあれば、もちろんそれが指摘すべき王様だ。
あるいは同調したがる大衆も王様たりえる。
なんにせよ群れにいたのでは群れのルールに抗えない。ただの広報さんである。
ましてや食えなくなったからといって国に補償をもとめるくらいなら、最初から公務員を目指せよ。
サラリーマンになれよ。
地道で安定した道がいやで自分で選んだんだろ?
闇生