どの表現ジャンルでも、その手法ならではのものを抽出できたものが、優れている。
当然か。
音楽なら、音楽にしか表現できないものをそこに提示すべきだし、聴く側も知らずにそれを求めているはずで。
代用がきくような奴なんか、愛せるわけがない。
もしもその魅力が歌詞のみならば、詩集でことは済んでしまうのだから。
詞と、
その声の変化と、
音楽のブレンドにしか生み出せないものこそを、味わっているのだな。実は。
小説でも、
漫画でも、
あるいは芝居でも、そんな「ならでは」のものに出会えた瞬間こそ、ごちそうだ。
だからあたしゃ原作の単なる映像化に終始しているもの。つまりは、なんだかんだいっても原作を払拭できなかったものが、苦手なのであーる。
特に映画という表現手段は、総合芸術とまで言われるくらいの便利屋さんだ。
なんせ小説的、詩的、音楽的、美術的、それら諸要素を放り込める具だくさんの鍋みたいなもので。
んが、
だからこそ、器用貧乏に陥って、ついつい肝心かなめの映画的要素を煮出すことを、怠ってしまうらしい。
黒澤明は『映画』というものはカットとカットの隙間に潜んでいると述べた。
素敵なものの核心は、いつだって恥ずかしがり屋さんなのだ。
そして、あえて他ジャンルで説明すれば、一番近いのは音楽じゃないかと。
ようするに、あくまで時間の芸術であることが大前提なのである。
だもんだからジム・ジャームッシュの『ストレンジャー・ザン・パラダイス』を彼が激賞するのは当然であって。
あれの魅力は、カットとカットの間に置かれた黒味の間(マ)。間の魅力に尽きるのだから。
いってみりゃ、野暮は『間』抜けってことよ。
さて、
映画的要素がなんであるか。
それを厳密に突き止めよう、だなんて大それたことをやろうというのではない。
なんせその黒澤ですら、最晩年に「映画というものが、なんであるかわからない」と。
そのうえで「しかし映画という美しいものを、やっとつかめたような気がする」と述べるに留めているのだもの。
しかしだ、
あえてあたしゃそれに加えて『空気感』を求めてやろうかと、思う。
むろん映画という時間芸術のなかでのそれだから、空気には流れが、つまりは風があるわけで。
スカートがひるがえるほどの風ならば、宮崎駿が得意としている。
しかし、部屋の中の、一見無風のなかでも対流はある。
気流といってもいいのか。
我々の日常は、ひいては人生は、つねにそんな風の中にあるのだ。
そして、
それを感じさせる名匠が、いて。
市川準。
彼は生涯それにこだわった。
『BU・SU』
『つぐみ』
『会社物語』
『病院で死ぬということ』
どれも素晴らしいし、その魅力を支えていたのが、彼の持つ静かな空気感であることはまぎれもない。
中でも闇生にとって大切なのが『トキワ荘の青春』。
あの木造ボロアパートの磨き上げられた廊下。
質素な戸棚。
紙の上を走るペン先の音。
そのすべてが、独特の凛とした空気のなかにあった。
近年なら、村上春樹の短編に挑んだ『トニー滝谷』だろう。
これは必見である。
室内シーンをあえて野外で撮って、常に画面に風が吹いているような効果を狙ったという。
坂本龍一のピアノも、毎度のことながらずるいし。
といっても、画面を観ながらほとんど即興で演奏したというから、そうさせたのもまた、市川の『風』だ。
宮沢りえも、イッセー尾形も、ちゃんとその空気をまとってそこにいた。
さらには撮影監督に写真家を使うほど絵にはこだわって、それらが見事といっていいほどに、青く統一されたハーモニーを奏でるのだから、たまらない。
訃報はついさっき。
ネットで読んだ。
あまりに早すぎる、とは常套句だが。うん、惜しい。
奇をてらわず、
下心見え見えのアクの強さもなく、
映画は一貫してやさしいまなざしにあふれていたが、それを通せたのは強さあってのこと。
いい風を持っていたよ。この監督は。
合掌。
☾☀闇生☆☽