まいった。
デヴィッド・ルヴォー演出の舞台『シラノ・ド・ベルジュラック』に、である。
年末だったか、
あるいは年始だったか。
地上波で放映されたのを録っておいたのだが、観たのは昨夜。
実は録画した翌日に一度再生してはいる。
んが、
冒頭の酒場のシーンで、こりゃいかんわと。
なんせ画面の隅にかろうじて映っているだけの端役までが、実に良く。
出てくる役者、出てくる役者、そのことごとくが魅力的で。
セットもふくめたステージ上はむろんのこと、観客の反応や、ひいては劇場全体が濃密な何かを感じさせるのだ。
それはあれだ。
良質な芝居を作ろう、という作り手側と、
最高の芝居を体験しよう、という観客側との、相思相愛の空気。
だもの、
きちんと時間をつくって、じっくりと観賞すべきだと思い直した次第なのであーる。
うっかり酒の肴にしてしまったり、
あるいは、些事にかまけて一時停止をかましてしまうような。
とどのつまりが、視聴者中心で眺めたのでは、もったいないと感じたのであーる。
いいものには、すんなり服従してしまおうとね。
原作は、いわずと知れたフランスの名作古典劇。
勇敢で、
叡智に長け、
それでいてユーモアも兼ね備え、
ばかりか芸術にも造詣が深いという、誇り高き騎士シラノの恋物語だ。
しかし、そんな彼にも唯一最大のコンプレックスがあって。
それが鼻。
顔の真ん中に傲然とそびえたつ巨大な鼻の醜悪は、自他共に認めるしろもので。
それがゆえに、意中の女ロクサーヌに、その想いを告げられないでいる。
ロクサーヌは、若く美しい別の騎士に恋をして。
そして、その騎士もまた、ロクサーヌに恋をして。
けれど、騎士には文才もなく。
また詩情も理解しないので、その想いをロクサーヌに伝える術がない。
よって、友人シラノが、恋文の代筆をかってでるのだな。
やがてロクサーヌは、戦場から続々と届けられてくる騎士の手紙の言葉を、愛し始める。
彼女にとって、言葉は心がつむぎ出すもので。
言葉を愛するとは、つまりは外見ではなく、その心に触れるということで。
惚れるということで。
それがシラノの手によるものだとは知らずに。
むろん芝居は生で観てこそだ。
けれど、それについては、ここではおく。
前にもさんざん書いてきたのだしね。
基本的に、ユーモアを潤滑剤として進行していく。
それも緩急のリズムが巧みで、なおかつ役者がうまいのなんのって。
となれば、これはもう、こちらの感受性はもみほぐされてしまうのだな。
古典への気構えも、
名匠D・ルヴォーへの畏敬の念も、
はたまた、シラノ役のケヴィン・クラインへの羨望も、
ぐにょんぐにょんに揉みしだかれて、笑った、笑った。
んで、
その弛緩した感受性のスキを突いてくるラストには、ぱあぱあ泣かされたよ。
もおね、ああまでやられると、シクシクだのワアワアだのじゃ追いつかない。
ぱあぱあだ。
闇生はぱあぱあだ。
自然、字幕を追いながら、声の中から断片的に単語を拾っていく観かたになってしまうが。
それでも、ぱあぱあまで感動できるのだから。
欲を言えば、ロクサーヌ役は、もう少し知的に演じてもよかったのではないのかなと。
あの英傑シラノをぞっこんにさせるほどの女なのだから。
この物語が長く愛され続けている理由は、明確だ。
やはりコンプレックスを扱っているからでしょう。
コンプレックスってものは、古今東西、誰しもが多かれ少なかれ持っているものですからね。
そこが吸引力となって、この物語への強い共感を生んでいる。
けれど、シラノほどの文武両道ならねえ。
鼻の大小なんぞ…。
なんて思ってしまいそうにもなるが、えてしてコンプレックスなんていうものは、他人からみればそういうものでもある。
巨乳さんほど、その実、微乳さんに憧れていたりする。
その喩えは、どうだか。
んが、当人には切実だ。
映画なら、フランスの名優ジェラール・ドパルデューがシラノを演じた『シラノ・ド・ベルジュラック』が大傑作で、お勧め。
こちらはがっつりと正統派で、ユーモア色は薄かったはず。
でも、いいっすよぉ。
あれ?
これDVD化されていないのかな。
もったいないぞっ。
VHS発売当時は、丁度レンタルビデオ全盛期だった。
パイオニアLDCはこの作品の販促物としてマグカップを配布していたのである。
思えば、リュック・ベッソンが台頭してくる以前のフランス映画だ。
その宣伝に、そこまで力を入れるのは、当時としてはギャンブルだったと思う。
いまだにこのマグカップ、あたしゃ愛用しておりますぞ。
☾☀闇生☆☽
演出だけが目当てで、なんとなく録ったのだが、大収穫と。