誰でも希望する職業につけるようになるのが理想だろうけれど、
実際問題としては、そうではない人の方が圧倒的に多いよね。
わかりやすいところで言えば、芸人さんだって、それだけで食えている人は全体のなかのほんの一部で。
大概がアルバイトで口に糊しているでしょう。
あるいは本来なら劇場で作り込んだネタで客の爆笑をあびたいのに、場を失ってYoutubeで私生活紹介みたいな動画をあげることになった人とか。
あたしが勤務する警備員だって、同僚には劇団員もいれば、タレント志望で事務所に所属している人もいる。
ミュージシャンもいる。
アニメーターもいる。
居酒屋の店主までいる。
そのほかにも仲間に明かしていない人を含めれば、相当な数がいるはず。
あたしだって上京してすぐのころ、金に困ってついたのが警備員で。
そこから転職するときは、今でもはっきり覚えているけれど、二度とガードマンになんか戻らないと日記にしたためた。
それが、この体たらくだ。
不甲斐ない。
んが、
それは誰のせいでもないし。
なにかの被害者になったわけでもなければ、加害者がいるわけでもない。
災害や社会的人災の影響でそうなった人たちとは、問題が違うともいえるでしょう。
そうかもしれん。
けど、落語の『天災』ではないが、嘆いていてどうなるの。
釈迦の『毒矢のたとえ』ではないが、あーだこーだ犯人捜しや分析や原因追及をするまえに、まずその刺さった矢を抜こう。
その矢を抜くことができるのは、自分のみだ。
ましてや、それを第三者が可哀相とするのはいかがなものだろう。
『可哀相』にはなんの推進力もない。
可哀相がるために可哀相がっているだけ。
感想は勝手だけれどそれを勝手に主張しちゃ、だめよ。
どんな状況であっても、選択の余地というのは残されているものだし、
それを選ぶのは自分。
※追伸。
事情があって仕方なく嫌々やってます、て態度でやられてもなあと思いません?
客はともかく、同業者に失礼だわ。
※追伸。
あそうだ。『12人の優しい日本人』のリモート読み合わせ。
観ました。
おもしろかった。
さすがにこのスタイルに合わせた書き直しをする暇も、分割画面に合わせた演出をする時間もなかったようだけれど、楽しかった。
多くの人が感じたように、このスタイル用に新作が書かれ、このスタイル用の演出が試されていってもよいと思う。
むろん、劇場での芝居とは別にね。
大掛かりで贅沢なセットや音響や照明、衣装にいろどられた芝居も魅力的だけれど、
椅子ひとつとか、そういう最小限の仕掛けと観客の想像力があれば成立するのも芝居だ。
役者の「ここは海」の芝居がそこを海辺にするように、『見なし』で成立している芝居は「ここは劇場」という見なしの共有が成立すればどこだって劇場にできる。
あ。これは劇場批判じゃないからね。
芝居というものはフットワークの柔軟なものだということ。
観たいという人がいるかぎり、芝居は死なない。
たとえ劇場が死んでも、芝居が死なない限り、また劇場に火は灯る。
闇生