原作がコーマック・マッカーシーの『血と暴力の国』。
原題は双方ともに『NO COUNTRY FOR OLD MEN』。
監督はコーエン兄弟である。
原則として、映画は原作と切り離して愉しむべきである。
正直、そうあってほしいし。
あるべきだし。
するべきでもあろうし。
小説をもとにしたとしても、映画はそれに隷属してはならんと。
あくまで映画は映画の神に服従しないと、生臭くなる。
最低限、単に字を絵におこした『映像化』ではなく、あくまで『映画化』になっていなくては、どーにもこーにも、いただけないものだ。
小説の説明に終始するのならば、小説を読めばいいのだから。
しかしながら、
そうとわきまえた上で、比較しつつ感想を書いてみようかと思った。
断っておくが、あたしゃ原作を読んでからこれをDVDで鑑賞している。
よって、以下は、あくまでもそういう視点に依ってしまっているのであしからず。
ネタバレと解釈される方もおられるだろうから、ご注意を。
まず、あたしゃコーエン兄弟のファンである。
ハリウッド映画、などと一口にいうものの、実態は内外の出資会社に牛耳られている昨今。
日の目を見る企画は、儲かるハナシだけで。
しかしそうはいっても、それを出資者が見究めるのは至難のワザというものだろう。
となれば、ローリスクな企画ばかりがモテモテとなる。
カネを出す側の気持ちになれば、それはまあ、いたし方のないところなのか。
よって、ヒット映画の続編か、
ベストセラーの映画化か。
はたまたアメコミか、ってとこが相場となるわけ。
ちなみに日本の民放ドラマは、似たような理由でマンガに頼りきっちゃいますな。
とてもじゃないが、オリジナル作品に賭ける余裕はないぞと。
根気もないぞと。
映画界はそれほどまでに世知辛い。
だもんだから、長年そこで監督が作家性を保ちつづけるなんていうことは、相当な力量と言っていいんじゃないだろうか。てか、言っちゃおうよ。
コーエン兄弟は、そんなたぐい稀な作家なのである。
まずは、そこがたくましいと。
マッチョよ、と。
それはもう、ジャンル分けしてしまうのがもったいないくらいに、どーしよーもなく臭うのだ。マッチョが。
いや、作家が。
そもそも、躊躇無くジャンル分けができてしまう映画なんか、その時点で、映画ならではの不思議をひとつ放棄していると見なしていいんじゃないでしょーか。
どうすか。
恋愛にしろ、サスペンスにしろ、アクションにしろ、コメディーにしろ、音楽にしろ。
それらいろんな要素がいっしょくたにされた複雑なブレンドが楽しめるのが、映画ならでは、なわけで。
そう、ごった煮。
それゆえに総合芸術なんて言われたりもするのだから。
ね。
ともかくだ、
コーエンの映画は四の五の言わずに『コーエン兄弟』と、そうカテゴライズすればいいのであーる。
んで、本作。
商売的には『クライム・サスペンス』だなんて扱いをされるのでしょう。
なんて扱いだろう。
なんかわかったような、わかんないような。
わかったふりしてれば無難、みたいな。
とどのつまりがドンパチ、ハラハラ。ってことなのか。
ちがうか。
んなことより、これだけは言える。
どこを切ってもやっぱりコーエン兄弟だったと。
原作を基にしつつも、
して、その要所、要所をおさえつつも、
かつ、これまでになくユーモアを控えていながら、それはもう、まぎれもなく、臭っちゃってるのだ。
ストーリーは極めてシンプル。
テキサスの国境近く。
主人公モスは、マフィアの麻薬取引現場に出くわす。
現場は、双方でもめて銃撃戦をくりひろげたらしく、生存者はすでに無い。
死体のころがる血なまぐさい現場で、モスは大金を手にする。
で、彼はそれを持ち逃げしようと。
簡単に言えば、マフィアのカネを持って逃げるモスと、それを追う敵対関係のマフィアが二組。そして事件を追う老保安官のロードムービーなのである。
一方のマフィアから放たれた殺人者、アントン・シガー。
冷血で、冗談が通じず、牛を屠殺するエアガンとサイレンサー付きのショットガンを使う、おかっぱ頭の横分け野郎だ。
こわっ。
その風貌。だれもが一目見て思うことだろう「サイコ野郎」と。
この人物は下馬評どおりに際立っていた。
ちびるよ。
面と向かってにやりと微笑まれたら、ちょちょぎれるよ。
こいつのたたずまいを確かめるだけでも、映画を観る価値はあったと思う。
ちなみに原作でも、映画でも、彼の生い立ちや趣向については一切触れられない。
それでいてなにがしかの彼なりの行動原理というか、自前の哲学があるのは、確かなようで。
そのあたりはやはり小説のほうが、じっくりと感じとる事ができる。
なんせ長編小説を二時間の映画に押し込めるなんてこと自体、無謀なのだから。そこはひとつ、映画を先にあたった方には、ぜひとも小説で愉しんでもらいたい、ぞ。
二度おいしいはずだ。
ほかにも、映画版で省略された重要箇所はいくつかあって。
まず、ヒッチハイクの少女。
旅の道づれとなるこの少女とモスのやりとりは、やはり重要かと。
それと、モスの妻と殺人者シガーの対話。
小説ではもっと長く、底無しの迷宮を行くがごとく深く、重いのだ。
ラストの保安官とその叔父との対話にも、長く重要な逸話が出てくる。
シーンとしても、冒頭の夜の荒野でのチェイスはもっと長く執拗だし、モーテルでの銃撃は、モス対シガーに加えてメキシカンマフィアが絡んで、三つ巴。そりゃもう大変な騒ぎなのである。
ところで、
殺人者シガーの背景は、小説でも映画でもほとんど触れられていないことは、先にも述べた。
そこがまた不気味で、観客の想像力の使いどころではある。
が、一箇所。思わずにんまりとさせられる、彼の一面にふれるさりげないカットがあったのだ。これは映画版ならではではないのか。
むろん、あたしなりの解釈だが。
シガーのラストシーン直前。
バックミラーへの執拗な視線。
普通、ああまで気をとられるものでしょうか。あれに。
だからこそ、そこに彼のある種の趣向が現れているのではと見たのだが。
どうでしょうか。
さてと、結論を言ってしまえば、映画は物足りなさを感じた。
いま一歩、と。
かといって不満があるわけではない。
いわずもがな、上記のとおり小説世界の再現を期待していたわけではないのだ。
んが、それがゆえに、映画ならではのコーエン節が、もっと欲しかったなと。
いつものあの引いたユーモアを。もっと。
いや、
違うな。
そう、この腹八分目こそが、良作の証なのだろう。
それと、あとになって気がついたのだが、音楽がほとんど無いこと。
音楽らしい音楽にかぎっては、皆無と言っていいと思う。エンドタイトルまでは。
ということは、それに気づかせないくらいに、画面が濃密だったということだ。
音楽無しでラストまでひきつけるとは。
むう。
やはりそこはテダレならではの妙技か。
なんだかんだ言っても、結局はさすがのコーエン兄弟なのであーる。
つーことで、
まずは映画を観て、そのあとに小説で細部を堪能するのが、お勧めです。
☾☀闇生☆☽