クリストというアーティストがいる。
梱包、にこだわった作風で知られる。
その作品は、日常生活で目にするありとあらゆるもののラッピングを試みるというもので。
と言ってもその対象はおにぎりや使いかけの大根などではなく。
たとえば、ビルをまるごと梱包したり。
はたまた数キロにわたって海岸を布で覆い、
あるときは渓谷に巨大なカーテンをつるして、それをもって梱包と見立てたりする。
その、見慣れた風景が布きれ一枚で激変してしまうことの、おどろき。
ここまで規模が大きくなってくると、その制作の現場は、開催地の地元住民を巻き込んでの一大プロジェクトとなるわけで。
この手の表現に賛否があるのは当然のことだが、それだけではない。人々の生活領域に踏み込んでこそ成立するものであるからして反対派、推進派がせめぎあい、衝突して、企画が頓挫してしまうことも珍しくないとか。
日本でも、彼のプロジェクトが実現したことがあった。
茨城県の常陸太田市から里美村にかけて、野山や田畑をあざやかに『梱包』してのけたアンブレラ・プロジェクトがそれである。
巨大な傘がいくつも突き立てられているその光景。
それはピンク・フロイドのアルバムジャケットのような。
企画から説明会、そして制作へと。紆余曲折を経て地元の協力を得、ついに開催にこぎつける制作の過程は記録され、当時テレビで放映された。
梱包。
それつまり制限するということである。
縛る、ということである。
たとえばアニメ『lain: serial experiments lain 』だとか。押井系のアニメでもそうだったと記憶するが、電線に切り刻まれた都会の空を、彼らは実に印象的に扱ったものだ。
思えば、電線のないすっきりとした欧米の街並みこそが模範であるとして。日本も早くそれに倣うべきだとする声がし始めていたころだった。
けれど、少なくとも一部のクリエイティブな日本人はあの電線に刻まれた空を、
緊縛された空を、
退廃的な美しさとしてとらえていたのであーる。
Bondaged Sky.
絵画の本質はその額縁にあり。
とは作家チェスタートンの言葉だ。
自由のミソは、その制約の加減に依るという意味らしい。
クリストの『作品』から感じるのは、自由と制約。その二つの関係性である。
縛ることで活きてくる何ごとか。
それは自生していた花を摘み取り、花瓶に生けることではじめて見えてくる何かだ。
そこへいくと、あたしらはこの緊縛された空を見上げて育った世代である。
井の中の蛙 大海を知らず。
されど空の深きを知る。
制約が自由を教えてくれる。
自由が制約を思い知らせる。
ふたつはあざなえる縄のごとしで。
ましてやあたしゃエロ屋でござい。
SMにからめてそう連想するのも無理もない。
この度、クリストの里美村を思い出して日常のあちこちで見かけるBondaged Skyにオモイをはせた次第でござった。
してふと、そのオモイをくるりと裏返してカルイに代え、ふわりと空に放り投げてみた。
俯瞰してみると……。
いたるところ電線だらけといわれるこの国は、空から見れば、緊縛された島ではないのか。
縛られていたのは空のほうではなく……。
母が子を胸の中に『梱包』する。
んがその実、
包んでいるのは子のほうだったり、する。
☾☀闇生☆☽
追記。
今回の記事はあれですな。
職場の、エロ屋のほうのブログに乗せるべきネタでしたな。
こっそり転載しちまおっと。
同僚はこのブログの存在を知らぬので。
知られると悪口とか、もう書けねえし。
そこはひとつ、こっそりと。
内緒ね。