本日、広辞苑の第六版が発売されるのだとか。
それを指して人はいう、国語辞典の最高峰と。
その最新版だもんだから、朝からニュースは取りざたすわけだ。
なんせ今や電子辞書に標準装備されるくらいの信用度である。
装備の有無が電気屋の売り上げを左右するのは確かなわけで。
んが、
そこまで神聖視され、浸透してるっつーのならば、一度は懐疑してみるのもおもしろいんじゃないでしょうか。
そこはひとつ、
日々硬くなっていく一方の、のーみその、
柔軟体操として。
んで、これ。
谷沢永一、渡部昇一共著『広辞苑の嘘』光文社。
2001年の10月に発行とあるから、さすがに最新版には触れていないが、版を重ねるごとに改悪(?)されてきた広辞苑の歴史を見渡すことができる。
その序文にはこうある。
「『広辞苑』は間違いだらけである。記されている語釈は要点から逸れている。うっかり信用したら恥をかく。『広辞苑』は勘違いした説明が多いから、真面目に受け取ろうものなら、手紙や講演などで、頓珍漢を演じるおそれがある。火の用心、広辞苑用心。」
以下、いくつか引用する。
「おっと、【交遊】交わりあそぶこと。交際。とは何と無知な。もちろん間違い。遊ぶことではない。遊学が遊ぶことではないのと同じ。『交友の言い換え言葉』です。で、【交友】を見ると案の定、1、友と交際すること…と恥の上塗りをやっています。友と、ではなく、『友達として交際すること』です。」(本文より)
「ところで、誰もが知っているとなると、まあいいかと手抜きをやるのも広辞苑の特徴です。【枕草子】平安中期の随筆。清少納言作。…と、いとも簡単に現代の感覚で書いてしまう。(略)
これは、随筆、ではなくて、日記、です。平安時代には随筆などという言葉はなかった。日記と書いて当時は『にき』と読んでいました。随筆という文字が登場するのは一条兼良『藤河の記』(文明五年)からで室町期以降です。」(同)
「【善人猶もて往生を遂ぐ、況んや悪人をや】『歎異抄』にある親鸞の言葉。は誤り。これは法然の言葉である。親鸞は(略)法然の教えを説く旨をことわっている。」(同)
などなど、興味深い記事が多い。
それら『嘘』の根源には編者側の『左傾』があると著者は見る。
ようするに、左傾化の一途をたどる広辞苑を、『右』にカテゴライズされる著者が、
「アホか」
とツッコミをいれた本。そういえるだろう。
けれども、
かといって『右』が溜飲を下げるための書、と片付けてしまうのはもったいない。
マスコミは、広辞苑の最新版歓迎キャンペーンで一色。
ベタ塗りである。
なんせ天下の岩波だ。
ならば、
『左』こそが、そこんとこに違和感を覚えるべきなんじゃないだろうか。
報道が一色になるときは、ろくなことがおきやしない。
そう戦中の言論統制を指弾してきたのだから。
だなんて固いことを仮に抜きにしたとしても、
一色塗りに、ちょっとだけ距離を置くためにも、こんな本で刺激を得てみるってのは、
どうすか。
最新版でどの程度の改善がされたのか、今のところ私は知らない。
語られるのは新語のことばかりだし。
んが、
この本を読む限り、これだけは確信できる。
なんであれ、新しいものほど正しいとは限らない、と。
先日も、学研の地球儀が某国の圧力によって、台湾の表記を変えさせられたばかり。
あれは子供のための『最新』教材ではないのか。
こわいですね〜。
おっとろしいですね〜。
戦争とは、なにも武力によるものだけではないのだなと。
群雄割拠の戦国時代を経てきた日本ならば、知りぬいていて当然のはず。
なのに。
嗚呼、なのに、
ねえ。
武力だけを警戒して、脳内の備えはどうなっているのやら。
…と、
その考える力の根本である言葉。
その規範の書であるべき国語辞典からしてどうなのよと。
お互い、あたまは柔らかくしとかないと、ころり。
やられますぜ。
☾☀闇生☆☽