『教誨師』という言葉をこの本によって知る。
死刑囚と対峙し、
対話を重ね、
そしてその執行に立ちあう宗教家のことをいう。
どの宗派の教誨師を選ぶかは死刑囚にゆだねられるが、むろん登録された団体のなかに限定されている。
それは仏教系だけではないらしい。
キリスト教系も含まれている。
この本は半世紀ものあいだ死刑囚たちと対話をくりかえし、その執行に立ち会ってきた教誨師・浄土真宗僧侶 渡邉普相への取材による。
真宗と言えば親鸞だ。
親鸞といえば『歎異抄』であり『悪人正機説』だろう。
その真宗僧侶が教誨師をつとめるというのは、至極自然な成り行きともいえるかもしれない。
ちなみに『教誨』というこの言葉。
手元の辞書によれば『教戒』と同義とされ「教え戒めること。教え諭すこと」と出ていた。
しかし『戒』ではなく『誨』なのだと渡邉住職は云う。
『戒』は戒めるの意。
『戒める』とは「目下のものに対して過ちのないように強く注意したり禁止したりすること」。
しかし『誨』は「おしえる。丁寧におしえさとす」という意味で、ニュアンスはまるで違っている。
渡邉住職はあくまで『戒』ではなく『誨』であることにこだわった。
教戒ではなく教誨であると。
なぜなら、
彼ら死刑囚の未来は『強制的な死』という罰を受けること。つまり『命でつぐなうこと』なのだ。
それ以上でもそれ以下でもない。
社会が彼らに求めるのはもはや更生ではなく。隔離され、究極の罰を受けて抹殺されることにほかならない。
そこにいち宗教家が乗り込んで戒めたり、反省や精神的な更生を促したりできると考えるのがそもそも思い上がりで。
選択の余地なく死を突きつけられた人間に対して、いくら宗教家であろうとそうやすやすと「救い」など与えられるものではない。
できることは、「聴く」こと。
相手の話に熱心に耳をかたむけ、
少しでも穏やかな時間をともに過ごし、寄り添う。
上から「戒める」のではない。
ただ「聴く」。それだけであると。
そして渡邉住職は、死刑とはいうもののやっていることは「人殺し」であると断言する。
少なくとも良いことをやっているわけではないのは明白で。
なぜなら執行したところで被害者・加害者それぞれの家族、執行に携わるもの……誰ひとり救われるわけではないからだ。
執行に携わる者はみんな仕方なしにやっているわけであり。
制度に反対を表明したところで、現状、制度は続いており、
死刑というものがつづく限り誰かがそれをやらなければならない。
だからこそ、ただ殺せばいいというものじゃないんだと。
そこに宗教家を立ち会わせることが重要なのだと。
本人が求めようが求めなかろうが、必ず教誨師を用意しなくてはならないと。
それは殺される本人のためだけではなく、殺す側の看守さんたちも含めて、そこに宗教家がいたほうが、せめてもの心の救いになるのだと。
宗教家が立ち会わなければ、それこそ本当の「人殺し」だ。
死刑制度に賛成か反対か。その議論にばかりマスコミは終始している。
渡邉はそんな世間の死刑問題への扱いに辟易してか、それまでこの問題を決して語ろうとはしなかったという。
現場の当事者であった彼としては、平板な結論ありきの取材には不毛を感じずにはおられなかったのだろう。
そこにきて、
「わしが死んでから世に出して下さいの」
という約束のうえで渡邉が取材をゆるしたのは、ひとえに「賛成か反対か」の紋切り型ではなく「ただ聴くだけ」という教誨師に通ずる態度、もしくは同じ匂いを、著者の取材姿勢に感じたからではあるまいか。
必読。
闇生