親しき者らと和気あいあい、
たらふく飲み食いした夕食のあとのこと。
とめどのない冗談とワインに飽きた彼女はふと、コップ一杯の水を求めてキッチンへと起った。
すかさずその背中に、テーブルから声がかかる。
「水?」
「うん」
「ごめーん、切らしてた」
「いいよ、いいよ。水道ので」
「じゃ、ついでにあたしにも」
「あ、俺も」
蛇口をひねり、噴き出す水流を尻目に適当なコップをさがしはじめる。
「コップ、どこ?」
「えっと、右の一番上。青いの」
「あった、あった」
水はコップに受けられてたちまちいっぱいになり、あふれ出す。
女はそれに口をつけ、ひと息に飲みはじめた。
のどが膨らみ、コップの底がしずくを光らせて持ちあがる。
顎があがり、キッチンの小窓がすこしばかり開いているのに気づいた。
そとは闇だ。
こちらのあかりが、地面に四角く貼りついている。
――と、
そのフレームの端に、見知らぬ男が立っていた。
ぎょっとなって、彼女は思わずむせる。
男は背中をまるめ、しきりにこちらにお辞儀をしているようだ。
何かをつぶやきながら。
気味が悪かったが、向こうはどうやらひとり。
こちらには沢山の友人たちがいる。
ましてや、不意の珍事ほどパーティーに格好の話題はないわけで。
珍事、ゲット♪
思い切って窓の隙間を押しひろげ、声をかけた。
「なにか?」
冷気が押し寄せる。
男は再三再四あたまを下げたあと、おずおずとにじり寄ってきて、白い息とともにこう言った。
「どうか、水を一杯…」
蛇口の水は、依然として勢いを保っている。
その音は、おそらくは彼にも届いているはずで。さすがに断るのは、はばかられた。
女は持っていたコップをゆすぐとあらためて水をとり、窓越しに男へ差し出す。
彼は節くれだった指で丁重にそれを押しいただくと、ひび割れたくちびるを遠慮がちにつけた。
口にふくんだ液体が人肌になるのを待っているのか。
はたまたその感触を入念に舌で確かめているのか。
男は頬をふくらませたまましばし固まり、やがて滲みこませるように飲みくだす。
ごくり。
こぼれた溜め息が、押し殺されてふるえていた。
洟をすすり、あらためて女へあたまを下げ、ふた口目をふくむ。
そのときすでに彼は泣いていたのだ。
飲んだぶんだけそっくり目からこぼれ落ちてしまうのではないかと、女が思うほどに。
女、目をそらす。
料理につかった野菜の切りくずが、排水口を塞いでいる。
取り除くと、流しに満ちていた水が吸い込まれて渦をつくった。
同時にひどく下品な音が立つ。
リビングのテレビがやかましい。
それとは別になにかゲームでも始めたらしく、どっと沸いている。
みんなを呼ぼうか。
迷ううちに男は水を飲み干していた。
コップを返すと彼は、また深々とあたまを下げてから、闇のなかに消えていった。
翌日も男は現れた。
女はまた水をやった。
その翌日も。
そのまた翌日も。
ある日男は、水のお礼にと、奇妙な果実をひとつ女に捧げる。
それは醜く、
いびつで、
したたるような血の色をしていた。
女は気圧されてつい受け取ってしまったが、やはり気味が悪い。
こっそり、裏窓から砂漠へ投げ棄てる。
その翌日も男は現れ、女に赤い果実を捧げた。
代わりに女は水をやり、受け取った実を砂漠に棄てる。
その翌日も。
またその翌日も。
あるとき女は気づく。
男の頭頂部に一本、小さな木が枝を張っていることに。
男はきまって夜陰にまぎれて現れたから、それまでわからなかったのだ。
彼がくれる赤い実は、そのあたまの木からわずかにだけ採れる、なけなしのものらしかった。
女のやる水のおかげで、かろうじてそこに実ることができているようだった。
そうと知るや
男の『想い』は、
やがて『重い』と、
つまりは『キモイ』と、
結局のところ『ウザイ』と、
女のなかで変容をとげる。
ある夜、女は、
蛇口からふんだんに噴き出るいつものそれではなく、友人たちのつかった風呂の残り湯でコップを満たし、男へ渡した。
今にして思えばそれを口にふくんだとき、彼は異変に気づいたはずだ。が、男は表情ひとつ変えずに黙って飲み干した。
そして、いつものように赤い実をひとつ献上すると、あたまを下げて闇の果てへと消えていった。
翌日。
男は現れない。
夜明けに女は、いつもの窓辺にたったひとつ、赤い果実をみつける。
手に取ると、なにかがまるで違っていた。
やけどしそうなほどに、あたたかい。
窓の下に人のかげ。
男だった。
横たわり、目を閉じて押し黙っている。
手には、ちびたナイフ。
胸が真っ赤に裂けていた。
献上された最後の果実は、彼の心臓だったのだ。
言わずもがな、男のなけなしである。
女は、男が生きた砂漠の孤独を知らない。
水のありがたみを知らない。
男は、女の生きる世界の喧噪と退屈を知らない。
水のあたりまえを知らない。
男にとって、女は――。
女にとって、男は――。
と、ここまで書いてきて、筆が止まってしまった。
なにごとかを『水』に譬えてみようと、
譬えを考えることで、その何ごとかの正体をみつけようと、
そう考えながら書きはじめた。
で、
わからなくなった。
むろん、ここでの男女は逆でもいい。
同性でもいい。
肉親でもいい。
どちらかを批難しようというのでもない。
悲劇の一例。
ただそれを問おうとして、
はからずも問われている。
以下、
恐る恐る続けてみる。
そして――。
生まれてはじめてだったと思う。
友人たちの制止を振り切って、女は家の外に出る。
窓から棄てつづけた男のなけなしが、いつしかそこに森をつくっていたからだ。
花も実もないやつだった。
と、のちのち話の種にはなったが、
根も葉もないうわさに過ぎない。
彼のオモイは砂地に根を張り、
芽を出して、
日の目を見ぬままに葬られたおびただしい数の言の葉を、
そこに繁らせて実を結んでいた。
今やこの森には、花も実もある。
女は家から森へ水をひき、そこに住んだ。
森は、
砂漠の烈しい熱射から女をまもった。
砂嵐から庇った。
女はひとりになったが、もはや孤独ではない。
退屈も感じない。
森に抱かれてじっと耳を澄ませば、
砂漠をわたる風になでられて、言の葉がやさしく女に降りそそいだ。
友人たちは、いまも家のなか。
パーティーに明け暮れている。
☾☀闇生☆☽