ロックにかぶれかけてた若い頃、パット・メセニーがわからなかった。
— Yamio (@Yamio42529836) December 21, 2023
骨のない軟弱な音だと。
んが、
矢野顕子の『LOVE LIFE』収録の「愛はたくさん」のシンセギターソロに打ちのめされて改めた。
でこの名演だ。
何度聴いてもトゥーツのハモニカでうるっとしてしまうのよ。https://t.co/wjkK5ijbLu
過激さとか、
斬新さとか、
反抗とか、
挑戦的なとか、
エッジの効いたとか、
はめをはずした、
破壊的な、
つまりが不良的な、
そういういわゆる典型的なロックっぽさというのは先人たちがよってたかって取り組んできた功績としてすでに雛型ができあがってしまっており。
しかし次世代がそのできあがった雛型のなかに安穏とすること自体がどうもロック的ではないのではないかと。あたしゃ思っていた。
その雛型はひとんちじゃん。居候かいと。賃貸じゃんかと。
その疑問は幼少のころから抱いていて。
ミュージシャンの風情としてもその『ぽさ』を気取る姿は、嬉々としておさがりを着ている子どものように感じていた。
有体に云ってかっこよくなかった。
しかしそこを通過せずにいきなりYMOだったものだから自分史としての音楽体験は時系列的に逆転していたのである。
成人してからVan Halen、ツェッペリン、ジャニスなどにはまっていった。
パット・メセニーなんのそのである。
ぜんぜんガツンとこないじゃんかと。
ハードロックからブルース、ジャズへと遡って、
あるときYMOを振り返る。
一連の流れのなかに見出して、改めてその斬新さを体感するのであーる。
たとえば『BGM』という事件をすでに経験しており。
それは、前作までのクリアでポップに洗練されたわかりやすい音から変化して、曇りガラスごしにキンと冷えた冬の景色を観るような。
印象派のような。
ぼんやりとした。
けれど軟らかくはない。
やさしくもない。
正直、子どものあたしにはピンとこなかった。
なのに繰り返し「なんだこれ」と聴かせる離れがたい魅力があって、取りつかれてしまっていたのであーる。
とがっていたのである。とどのつまりが。
話は逸れに逸れまくっておる次第だけれども。
あの魅力はそういうことだったのかと、後年になって腑に落ちて来る。
だもんでパット・メセニーのあの丸い優しげな音の中にアバンギャルドを嗅ぎ当てることは、再会した時分には容易かった。
LAメタルを聴いていたケツ青き時代にはまるで魅力を感じなかったのだけれど、
優しいだけの人だったのだけれど、
いまにしてみれば、当時のメタルの方が原始的で単純でオーソドックスな手法を継承しているではないの。
音楽的にはまったく不良ではない。
お優しい。お行儀が良すぎる。
表現の画素数だっていたってシンプルだ。
むろんそれもそれで楽しめはするよ。
たとえば大好きなAC/DCのようにね。
でもAC/DCは自分たちであのスタイルを作り上げたからね。
表現の探求という点でいえば、
一聴して柔らかな音、静かな音、ゆっくりなテンポのなかにも未開地はふんだんにあり。
それを模索することこそ音楽的な挑戦であり、それにはいたるところに斬新さが求められ。
むろんその斬新さも雛型にはない、もしくはわかりにくい斬新さで。
逸脱の仕方も雛型が出来てしまっているからそう簡単には逸脱すらできないのだ。
つまりが冒険なのだ。
新鮮さなのだ。
というあたりで今日はお開き。
ぜひこちらもお聴きください。
これのエンディングのギターシンセです。 パットの名ソロの五本指くらいに入るのではないかと。 バンドとしても👍BassはA・ジャクソンだったかな。
— Yamio (@Yamio42529836) December 21, 2023
余談ですが、 インストでバリバリに弾ける人が歌ものでシンガーをサポートする演奏が好きだ。https://t.co/eaD4k84OVI https://t.co/HRRpG7naxm
☾☀闇生☆☽