実はストーリーに興味をもてていないのではないか、と。
誰が?
あたくしが。
常々そう思っていた。
犯人捜しとか、
殺害のトリックとか、
布石の回収だとか、
どんでんがえしという、通常は小説や映画のうまみとして持て囃されるあたりにさほど感じていないのではないかと。
繰り返す、あたくしが。
だもんで推理小説やミステリーと銘打った作品に興味がもてない。
それらのくだりは、言ってしまえば一度読んだらわかってしまう部分であり。
小説や映画はわかるために存在するのではないと確信しておるわけで。
ましてやそれらは繰り返し鑑賞したり、読んだりしたくなる要因にはなりにくい。
だもんで、大概のお人がいわゆる『ネタバレ』を嫌うのも『わかる』に重点をおいているからではないのかと。
んが、
あたしはあまり気にしない。
気にならない。
ネタバレされて面白味が減じてしまうような作品は、所詮はその程度だと思っている。
むろん、あたしゃ拙作を棚に高々と上げたてまつったうえでのたまっている。
と保険をかけておく。
えへん。
たとえば古典落語がそうだろう。
名人の噺となれば流れもオチも知ったうえで何回でも愉しめる。
いや、繰り返し繰り返し聴きたくなるもので。
ゆえに演者を変えながらゆうに百年以上も語り継がれてきた。
やがて代謝をやめて瀕死の状態に陥った古典落語ではあるのだけれど、それを再生させた貢献者が立川談志で。
その談志が弟子に対してこんなことを証言している。
落語はリズムとメロディで覚えろ。
談志といえばその破天荒なキャラと彼が創出した新たな解釈やオチにばかりが注目されがちだ。
けれど、この落語を音楽に見立てていたことは重要で。
演者ばかりではなく聴く側も実はそこに音楽を感じていたのだと、知る。
だもんで我々は流れもオチも知ったうえで落語を繰り返し鑑賞しているのだと。
そして演者による違いを云々して論評する。
スタンダードジャズやクラシックに対する音楽好きの姿勢と同じではないか。
話を戻そう。
映画でも小説でも、どうやらそうやって楽しんでいるらしいのだ。
誰が?
あたくしが。
淡々と何も起こらず主人公が暇つぶしをしているシーンに、はっとしたりする。
武映画の、ストーリーが停滞し砂浜で延々と野球をしていたり、相撲を取っているシーンにやられる。
ジャームッシュの、牢獄の壁にトム・ウェイツが無言でぐしゃぐしゃと何かを書きなぐっているのを、いつまでも覚えている。
ポンヌフの恋人の有名な花火のシーンは、ストーリーを『わからせる』ためだけなら、あんなに尺は要らないはずだし。
百年の孤独の小町娘のレメディオスのはけかたには、小説の魔術に撃ち抜かれるような思いがするけれど、むろんストーリーを「わからせる」ための機能ではない。
寺山映画の血の湖でチェロを弾く男も然り。
とまあ、繰り返し観たくなる映画。
何度でも読み直したくなる小説について考えている。
ストーリーに興味が持てないというコンプレックスの下に。
言わずもがな、この話にもオチはない。
あしからず。
☾★闇生☀☽