壁の言の葉

unlucky hero your key

『志の輔らくご』感想。

志の輔らくご~PARCO劇場こけら落とし~』

こけら落とし噺 」「 メルシーひな祭り 」

 ネタバレ注意。

志の輔らくご




 新しくなったパルコ劇場のこけら落としは当劇場のレギュラーといってもいい立川志の輔の公演。先週の金曜から始まって二月二十日まで続くという。
 タイトルにある通り新作落語として評判のよかった「 メルシーひな祭り 」をメインに据え、そのほかに古典をふたつやるという趣向。
 この古典のパート。ネタは何をやるか、パンフレットには書かれていない。
 あたしが行った日は「 ぞろぞろ 」と「 妾馬( 八五郎出世 ) 」であった。
 パンフレットに「こけらおとしの一席」とだけ題されていた「 ぞろぞろ 」は映像とのからみで固定されていると思われる。
 んが、仲入り後の「 おめでたい一席 」で披露した「 妾馬 」は、どうだろう。
 日替わり枠ではないのか。


 15分の仲入りをはさんで二時間半たっぷり聞かせた。


 しかしまあ、あれだ。
 これはあたしの個人的な事情なのだが、
 仕事柄、夜勤のバイオリズムのままいどんだ午後三時開演。
 アクセスに要する時間などを逆算すれば昼前には起床、入浴等々をすませておかなければならないわけで。
 有体に言って、眠かったのね。
 もうね、眠い。
 いっそへむひと言いたい。
 これはつまらないからではないのね。断じて。
 耳は話を追っている。
 して、ときに笑っているのだけれど、身体は頑なに眠ろうとする。
 てか、何度も落ちた。
 この状況は落語を聞きながら就寝する日常のルーティンと同じなのよ。
 あたしの座席は最後列のほぼセンター。
 劇場の広さからして別に悪い席だとも思わない。
 けれど、後列ほど前列の客のスマホの明かりが目に入りやすいわけで。
 これね、まいったね。
 なんなんだろか。あれ、
 ときどき画面チェックしている人たち。
 いい歳したおっさんがね、チラチラやらかしとるの。
 時間みてる?
 それともラインなどの着信?
 競馬速報?
 よくわからんわー。
 そういう事情もあってつい目を閉じて聞いてしまうので、余計にあたしゃ「 落ちる 」のであーる。


 ついでに言っておこう。
 目の前の座席にハゲオヤジと同伴してきた若い女がいて。
 彼女はもうあきらかに「 お付き合いで観に来ましたけどお 」的な風情であり。
 それは「 ハゲオヤジとやけにスタイルの良い若い女 」というベタ過ぎるほどアンバランスな組み合わせから否応なく導き出されたあたしの先入観ではないのね。断じて。
 なぜなら彼女もまた案の定こっくりこっくりし始めるのである。
 それについては無論あたしも言えた義理ではないのだが。
 けど、やっぱ興味ないのに来てしまったから常にそわそわしているのだ。彼女は。
 やたらそのロングの髪をかき上げる。いじる。
 そしてスマホをチェックする。
 すまん、斜め後ろからなので、見ようと思わなくてもその画面見えてしまうのだわ。
 ポーズ決め決めのインスタばかりだった。
 なんか紫外線をシャットアウトするファンデーションの広告ばりの。
 日差しなんてこわくない、資生堂。的な。
 地中海かどこかの白い街と青い空のこのコントラスト、どーやこら、的な。
 それも自撮りではなく、それっぽい構図で誰かに撮ってもらった感じの。
 いやでも他人の目に入るのだから、せめてひねれよと。
 ニ三分おきにマップで現在地確認して安心するとかさ。
 そしたらこっちも志の輔どころではなくなるわな。
 お前のほうがおもろい。


 でね、
 その手のマナーを云々するのはもう飽きたし、おっさんがそれを言うのもベタだし、諦めてもいるのでここでは書かないけれど、考えてしまったのは想像力についてである。
 演劇同様、演者と観客が想像力でつながるところに劇場の醍醐味があるわけで。
 視覚的な説明がなされないところに、そのおいしい秘密がたっぷりホヤホヤにあるわけで。
 話芸である落語は、その塊りであり典型だ。
 ビジュアル的には和服のおっさんが一人。座布団でしゃべっているだけであるからして想像力による世界の共有ができなければ、あれほどつまらないものはない。
 そして「 言葉から頭の中に映像をたちあげる*1 」もしくはそこに「 意味を見出す 」という作業は、訓練が必要なのだと思う。
 これができないと、人の話を聞くことに退屈するし。
 また、話す側になったときに、相手を退屈させもするのではないかと。


 なんだろ。
 自他の互換性と言えばいいのか。
 つまりが、それこそが言葉本来の役割なのだろうが
 演者からすればUse Your IllusionなのかYour Imaginationなのか。
 どちらにせよ観客の頭の中のキャンバスがクリアでなくては、そこに絵を描けない。


 会場がどっと沸くたびにぽかん、とひとり取り残される彼女を後ろから観察していてそう思った次第。
 なにが面白いのか、まったくわからないのだと思う。
 どっと沸く。そこで「 え? 」とあらためて舞台を注視する。
 耳を傾ける。
 しかし見栄えのしないおっさんが一人、相変わらずがらがら声で何かしゃべっているだけ。
 沸く前と後で視覚的に変化はなく。それが続いているだけだ。
 だもの興味はスマホを求めるわな。


 落語を聞き始めたばかりの人がやたら演者の所作( マイム )にばかり関心するのは、それがゆえ。
 テレビなんかでやるでしょ? 蕎麦の食い方とかさ。扇子と手ぬぐいの使い方を。それも真打クラスにそんなことさせるでしょ?
 言葉から世界を立ち上げる能力がまだ拙い人は、視覚に、しかもわかりやすい所作、動きに惹かれる。
 無論、それもまた入口であり、落語の欠かせぬ成分の一つではあるけれど。
 しかしあれは記号のようなものであるからして、実はリアルではないのね。
 リアリティは、その所作を解釈する想像力に依拠するもので、その事件は頭の中で起きている。
 談志の言うイリュージョンも、観客の想像力なくして生じることはない。


 だもんで、志の輔がPARCOでやる視覚的な大仕掛けについては、個人的には期待していない。
 というかんあれは志の輔流の、落語広報活動の一環であって。
 いわば呼び込みであって。
 サービスであって。
 悪く言えばこけおどし。
 蛇足。
 歌舞伎でいうところのコクーン公演であって。
 グリコのキャラメルのおまけなのであーる。
 うまくなるほどマニアックに偏りがちなファン層を、より広げようという挑戦だ。
 アングラ化、マニア化防止の戦いだ。
 若き談志がテレビに出たり、本を書いたり、とやったあの姿勢を志の輔流に引き継いでいるのに違いない。
 本来、あれを無くしても志の輔の芸は充分に成立しているのだな。
 新作も含めてね。



 追伸。
 入口に関係者から贈られた花が飾られてあった。
 細野晴臣の名をみつけて、にやり。


 闇生

*1:逆もまた然り。映像から言葉にならない言葉あるいは意味をたちあげる表現魔法も、まあたまらんわな。