彼らのその存在自体、
戦後日本への問いかけではなかったのか。
いわゆる戦後の焼け野原の露店商からはじまり、
闇市、
個人営業のそば屋、
牛丼屋のチェーン展開、
フランチャイズ制のファストフード店まで発展し、
ついに爛熟を極めたかの景観を呈す外食産業史。
それは大量消費社会ともいうが。
大衆は実利を貪り、損得勘定に目くじらを立てて平和を謳歌してきた。
ではいったいあたしたちは何を消費し、何を棄てて、何を失っていったのか。
その失くした何かを象徴するかのように、時代の節目節目に忽然と現われては消えていった伝説の立喰師たちがいる。
人呼んで、月見の銀次。
ケツネコロッケのお銀。
哭きの犬丸。
冷やしたぬきの政。
牛丼の牛五郎。
ハンバーガーの哲。
フランクフルトの辰。
中辛のサブ。
彼らは自前の美学に生きた。
美学でメシは喰えないが。
喰うことに美学を見出したのが彼ら立喰いのプロといえようか。
はなから損得勘定に背を向けているのだ。
この映画はそんな立喰師の生きざまに戦後史を見ようという趣向なのであーる。
全編がほぼナレーションのみで綴られており。
虚実ないまぜの膨大なうんちくを、豊富な語彙としゃっちょこばったレトリックで語りぬく、怒涛の押井節であった。
早い話が、芸域にまで達した、でたらめの極致なのである。
映像は、スーパーライブメーションなる手法の、パタパタ漫画。
切りぬいた両面イラストを割り箸の先に貼って上演する人形劇みたいなものと考えていい。
そのコミカルな動きでもって、ナレーションの過剰な情報量を稀釈しようという狙いなのだろうが、これは無視していいだろう。
だいいち、さぶいし。
意識の重心として、ナレーション八割。映像二割で対峙するのがおすすめ。
なんなら、途中、目を閉じて聴いていてもいいくらいである。
正直にいえば、画面が邪魔な時が何回もあった。
というのも、
ナレーションのなかの単語の多くが、聞くことを前提に選ばれたものではなく、読むことを念頭に構成されてあるらしいのだ。
喋り言葉ではなく、表意文字あっての言葉である。
しばしば頭の中で文字に変換しつつ乗り越えねばならない。
なにより原作は小説だもの。
言葉に集中しようではないか。
となると、この90分という時間はどうだろう。
長いだろう。
へろへろになるだろう。
押井節のもつ、
この知的なバカバカしさに独特のおかしみを味わえるようになれば、たまらんのだけれど。
そんなこんなで、万人にはすすめられない。
おおかた、伊丹十三の『タンポポ』的なものだろうと想像していた。
しかし、視点は丼の中身にではなく、昭和という時代にあった。
伊丹のはラーメン屋の話が、わかりやすいエンターテイメントとしてぶっといメインストーリーになっていたが、押井のはそういう構成にない。
つまり列伝。
列挙していくことだけで、時代から追い出されたなにごとかをあぶり出そうとしている。
……ようなふりをしている。
ふと思ったがこれ、講談にできそう。
☾☀闇生☆☽