立川談志は弟子たちに云った。
落語はリズムとメロディーで覚えろ、と。
物語の構造だの展開の分析、時代考証、または我流のオチをつくることより先にすることは、噺を音楽的に体におぼえこませること。
そういうことでとょう。
文楽の歌い方や、
あるいは圓生、志ん生、三木助、小さんの歌い方を、である。
その教育の結果、はたして立川流が輩出した真打たちの個性は、潰されたのでしょうか?
談志を指して、自分の頭で考える力のない落語家だとは誰も言わない。
思わない。
九九や方程式、はたまた年号の丸暗記が、自分の頭で考えることを妨害しているとは思えない。
むしろ考えることの道具として助けてくれているのではないのか。
イチローですら、
最初は言われたとおりにキャッチボールを身につけ、言われたとおりに素振りをすることから始めたはずだ。
あるいは有名選手の真似だってしたはずである。
それも何べんも何べんも繰り返し。
それらはつまり、形(カタ)を覚えるということなのだろう。
音楽だってそうだ。
バイエルを考えながら弾きはじめる子供なんているのかね。
12平均律に疑問を呈して、いきなり独自の音階を模索する子供が。
そもそも、どう足搔こうが音楽という名のお釈迦様のてのひらの中でのことだろうに。
さらに言うと、
自分の頭で考える、というキャンペーンに乗っかって真似ることで、さも独自な存在になったつもりになれているわけで。あたしらは。
リズムとメロディ。
意味の解説より先に、もしも音楽的に教えてもらえていたならば、もっともっと楽しめたのだろうな。
楽しめるなら、理解もきっと深まったはずだ。
短歌とか。
古文とか。
教育の現場で意味ばっかりを重視されたあげく、何も残っていやしない。
かつてあった『素読』は、まさに形(カタ)の習得である。
武道で言う形(カタ)ね。
たとえば運転免許を取得するとか、
そして車を道交法に従って運転するとかも、同じですよね。
つめこみ教育を何から何まで拒むというのも、思考停止だと思うのですよあたしは。
※追記。
たとえばね、
素読というのは文章のカタを身になじませるようなものだと思ふのだ。
言葉のリズムを。
けれど、現在ではこのカタを身につけるまえに作文をさせているわけで。
カタもないのに自由に思うがままに書けと言われても、型なしからはじめる自由ほど厄介なものはないのですよ。
闇生