この時代のこの事態を見渡すに、リーダーなんてやるもんじゃねえなと思う。
そう思ってしまうこと自体、あたしにはその素質がない証拠。
この国のこの状況を、漂流中の客船だと考えると、客もきつかろうが船長きついな。
客もまたリーダーに同情するわけにもいかないしな。
船員までもがああでもないこうでもないと騒ぎたてるのだ。
議論の場は大切だし、絶やしてはいけない。
批判も大事な意見だろう。
けれど『 船頭多くして船山にのぼる 』では意味がない。
合議制で物事がすすむのは平時。
有事の際は、それも被害の拡大が現在進行形である場合は特に、合議制で対応していたのでは間に合わない。
有事においては、乗員をひとりの欠損もなく救うというのは土台無理な話なのだ。
船長はその酷薄な選択も、しなくてはならない。
だいたい史上にも珍しい合議制で戦争をやらかした国だよ。あたしらは。
強力なリーダーなしにやらかしたのよ。
それを教訓としないでどうすんのよ。
そもそも組織とリーダー論的な教育をされた記憶がないのだな。
むかしは教師というある種のリーダーが確固とした存在であった。
だから、義務教育下において誰しもが組織というものが体験できた。
むろん良い面ばかりではなく、悪い面も体験した。
砕けて言えばチームワークだが。
いまはどうだろう。
個々人の自由は叫ばれるが、それぞれの自由が別の価値観の自由と衝突する現象が戦争なり紛争であるということまで、普段から意識されているのだろうか。
平時は自由でかまわんが、
有事は船頭を中心に足並みそろえることが原則とされてこそ、責任あるリーダーを目指す人材が育つのではないのかな。
なにも思考ストップせよというのではなし。
奴隷になるなんてもってのほかだが。
権限をリーダーに与えることに反発するくせに、責任だけは追及するというのもどうだか。
これでは断言や明確な指示、判断能力は鍛えられず、決断を避ける人ばかりになってしまう。
卑近だが、ケービの現場はまさにそう。
リーダーになることを避けてヤジは飛ばす。
そのヤジも提案のひとつとして取り上げてやろうとすると、ぷいと断言をさけて他人事。
各分野の職業リーダーが、そんなふうになっているのではないのか。
そういう風潮にみんなでしてきてしまったのではないのか。
大家族のテーブルでは収入の途絶えた稼ぎ手と子供たちが「 はら減った早く飯ださないと死ぬぞ 」と騒ぐ。
キッチンでは主婦( 夫 )がからっぽの冷蔵庫とにらめっこだ。
がまんしなさい、と強くも言えず。
かといって全員が満腹になるほど提供できず。
できたとしても、そのあとが続かず。
収入のめどは立たず。
病気の親の面倒もみなくてはならない。
繰り返すが批判するなとは思わない。
批評・批判が絶えてはならない。
だがヤジはいらぬ。
声は、あくまで家族の一員として。
今は家族総力戦の状況ではないのかな。
闇生