マウスや粘菌が効率よく迷路を解く、という話はよくきく。
たぶん動画もたくさんあがっている。
有名なダニェル・キースの小説『アルジャーノンに花束を』は、たしか主人公がアルジャーノンというマウスと迷路解きを競うところから物語が始まる。
それは、知能をはかる実験であり。
生まれつき知的水準の高くない主人公は、アルジャーノンに連戦連敗しているのだった。
想定どおりにのルートでは通行できない状況が勃発して、
そこで思考停止で立ち往生するのか。
あるいはなんらかの解決策を思考するなり、ただちに他のルートを模索するのか。
この能力の差は、大きい。
そんなことを通行止めの誘導に立つとき、いつも考えさせられるのだ。
そのご案内をいかにわかりやすく伝えるかが、あたしらの仕事ではあるのだが。
あたしらにとって一番やっいかなのが、いわずもがな歩行者、自転車である。
歩行者と自転車というのは、できるだけ通路を確保して作業するのが大前提で。
しかし、それを徹底して厳守していると、いつまでたっても工事できない案件が頻発するのも現実である。
なので、一時的にお待ちいただくか、
車道を規制して別に通路を確保するか。
最小限の迂回をお願いするか。
まず、自転車と歩行者というのは社会的に弱者扱いであり、
それがゆえにルールからお目こぼしをうけつづけ、
よって彼らは通れないという事態を想定する機会が極めて少ない。
あくまでマナーだのみ。
ばかりか商店街のアーケード下などに表示される、『自転車はおりて通行してください』なんか、無視でまかりとおっちまうのだな。
この度もそれを痛感した。
狭い路地での舗装。
つまりセンターラインもないような道幅の。
その道幅いっぱいとそこに接続する枝道との交差点にアスファルト合剤を敷いていくその作業中。
フィニッシャーが稼働し、敷かれていくホッカホカの合剤を作業員が汗だくになってレーキで均していく。
せめてその枝道の部分が完成するまでは、と自転車の迂回をお願いしていた。
ひとつ手前の迂回ポイントで誘導員がその説明をしていたのだが、
「すぐそこだから」
とチャリンコのご婦人が突破。
説明をするが、すぐそこだからの一点張り。
そのすぐそこってどこでしょう、と誘導員が問いかけるも「そこ」で突破。
そうして作業帯に侵入して、目の前の状況におどろく。
「すぐそこなのよ」
すぐそこだろうがコートジボアールだろうがカムチャッカだろうが、フィニッシャーからひりだされたばかりのホッカホカの合剤の上を通すわけにはいかない。
再度迂回をお願いするが、案内した一本裏の道からでは目的地にたどり着けないと豪語される。
違う道からたどり着けない家屋など、存在しない。ひとつも。
一本裏の道からコの字に迂回すれば、その合剤の湯気の向こう側に行ける。
そこから先は伊勢でもカルカッタでも好きなところへ行けばいい。
しかも自転車だ。
コの字迂回なんざなんてことない所要時間だろうに。
慣れたもので作業員が「警備員さん、いいよいいよ」とあきらめ顔でプレートをかけ始める。
「少々おまちください。ただいま通行できるように準備いたしますので」
そう伝えるも「すぐそこなのに」と不満顔。
まだ言ってんのかよおい。
お待ちいただいて、早急にプレートでとりあえず歩けるように固めてからどうぞ、というものの、自転車が汚れる、と。
だからさ、
だ、か、ら、迂回をお願いしてるじゃんか。
この無駄な待ち時間と、自転車と靴を汚してまで稼働する重機類の横を通るリスクを考えれば、選択肢は断然、迂回でしょうに。
迂回していれば今頃はその「すぐそこ」とやらで、茶の一杯も喫しておれたものを。
「警備員さん、かかえてやれよ」
と親方がさけぶ。
しかも電動アシストっ。重っ。
抱えて、職人たちとコンバインド・ローラーのオペさんに人が通る旨伝えて作業をストップさせ、
ほかほかの合剤の上を電動アシスト自転車を抱え、御婦人を先導して作業部を通過した。
これがまかり通るなら、そもそも通行止め自体が意味ないではないか。
「すぐそこ」氏が襲来するたび、作業をとめなければならない。
工事にご理解とご協力を、というのは、つまりがそのお願いなのだが。
別にアスファルトめくって合剤敷くのが好きな連中が集まって、勝手に工事しているのでもない。
電気ガス水道その他、ライフラインのメンテナンスなどでやっとるわけで。
「すぐそこ」氏。
すぐもどるからの「すぐもど」ちゃん。
「いつも通ってるから」や「いつもここに停めてるから」のイツモくん。
アルジャーノンに花束を、と思ふ。
追伸。
たとえば「この先右折できません」の予告看板を立ててご案内をしていると、こういう方が多い。
「じゃ、まっすぐは通れます?」
「左は?」
その消去法は、どうなんだと。
全方向言わなきゃいかんのかと。
道案内でも、こんなことがある。
「二つ先の角を右へ」
と案内すると、
「三つ目じゃないのね」と。
その返しいるか? とツッコミたくなるが、立て続けに、
「四つ目でもないのね」
の念押し。
さらに、
「左じゃなくて右ね」
その消去法、いる?
おそらくは、
ピンクの象を想像してはいけない、
という情報から人はピンクの象を想像せずにはおられないように、
三つ目、四つ目じゃないのね? の自らの問いが呪縛となって三つ目と四つ目が記憶されるに違いない。
左じゃなく、が左を強く記憶させるのだろう。
そうして「あの警備員が左に行けるって言った」とされる。
嗚呼。
闇生