ここしばらくは日勤現場についている。
何年ぶりだろう。
日の出前に起きて支度をし、
白い息を吐きながら現場をめざし、
夕暮れまで働いて、
日没後に帰宅する。
思えば、至極当たり前な日々である。
街は、
夜とは違って老人であふれている。
まずこれが新鮮だった。
わずか2㎝もないような段差に難儀するような方たちが、沢山通る。
さまざまな障害者、ペットを伴った人、ベビーカーとママさん、幼稚園児のお散歩の行列などなど。
それから多種多様な配達業の人たちと分別ゴミの回収業者。
ともあれ、
街もまた、ほったらかしでは老いていくばかりなのである。
だもんで工事というメンテナンスが必要なのだけれど。
人間のメンテナンスでもデトックスやストレッチなどといった手間暇が必要なように、街の健康を保つのにも手間暇がいる。
時に移植だの摘出だのといった手術のいる場合もある。
それらを平常運転を継続しながら施すのにはやはり無理があるわけで。
本来なら休暇をとってじっくりと対処すべきところを、街は街であることをつづけながら、つまりは働きながら済ますわけで。
その間、呼吸も心臓も止められない。
けれど、そのへんのところを理解していただけない方々というのが少なからずいるのだな。
工事の為にいつもと違うルートを通らされることに、憤慨される。
工事のためのバス停の移動。
50mくらいの移動。
その移動のせいで、乗る予定のバスを逃したなどと。
あるいは面倒だと。
都心の路線バスなんてもんは、一時間に何本も運行しているし、
それは電車もそうなのだけれど、
しかし、それならそれでそういうタイムスケジュールの過密化に自分の生活リズムまで合わせて、勝手にあわただしくしてしまうのだ。あたしらは。
通行止めによる迂回。
これも、そう。
いったい何分の違いなのか。
片側二車線の都心の幹線道路を、スーパーへの近道だからといっておぼつかない足取りで横断する老人たち。
あたしらはアルジャーノンなのか。チャーリー・ゴードンなのか。
月がとっても青いから、
遠回りして帰ろう。
なんて歌があった。昭和だねえ。
日常、合理性・効率性を要求されつづけることにあまりに慣れきってしまい、ときに目の前に立ちふさがる壁しか見えなくなることがままある。
うん。
けどそこでふと、じゃ月でも見ながら帰ろうかとスイッチを入れ直す。
それこそが知性なんじゃないかと。
いつもと違う道で、いつもと違う猫に出会えたり。
名前を知らない花をみつけたり。
景色を発見したり。
若者の未来。
それはまぎれもない老人だ。
で例外なくゴールは、死だ。
老人、あるいは死というゴールにむかって最短距離で効率よく合理的に行くのか。
あるいは、月をみながら遠回りして行くのか。
そこから月は見えますか?
闇生