現場で胸のすくような事案が発生す。
長びく工期のなかで、関係する現場代理人・作業員・警備員みんなが『その件』に関して苛立ちをため込んできていた。
むろん近隣と周辺住人のみなさまには、工事中に不便な思いをさせていることは承知している。
そこはもう、重ね重ねに。
んが、
今回のは『その件』というかその個人『そいつ』に対しての不満である。
工事に対して不満を抱いている人たちは決して少なくはない。
それを態度にあらわす人も、確かにある。
口で直接文句を言ってくる人もあれば、停止をうながす警備員に対してエンジンをふかして挑発しつづけたり、故意に警備員のぎりぎりを高速でかすめて通行したり。寸止めしたり。
ある先輩は灰皿の中身を投げつけられたという。
またある先輩は、中身の入ったコーヒーの缶を投げつけられたことがある。
どれもあたしらにとって、そしてそれを目撃する第三者にとっても不快なものだ。
けれどそれらは、すくなくともこちらが『人間』であると理解したうえでの挑発であり、反発であり、加害行為なのであーる。
理にかなっていようが、いなかろうが、人対人であってこそのストレスが介在している。
優劣の格差はあまりにもあるが、辛うじて彼らもこちらを『人』と認識する『人』ではあるのだ。
しかし『そいつ』だけは違う。
こちらを人としてみていないのであーる。
なので誘導のゼスチャーも言葉も届いていない。
目線も絶対に合わせないし、また逸らそうともしていない。
こういうタイプの場合、大概が少なくとも反抗なり、閉ざしなりが表情に出るものなのだが、それが無い。
道ばたの草だか電柱だかと同じにとらえている。
あれはなんなんだろう。
たしかに、彼の所属する店舗の従業員の多くが、対人関係の不得手な人ばかりなのは察していた。
あたしらのギョーカイ的にも、もっとも協力的でない業種のひとつとして把握している。
土木工事現場で交通誘導をしていると、その職業のひとたちのふるまいにはいつも心をすり減らされるもので。
神経がささくれだってしまうことも珍しくはない。
いっとくが暴力団とかではない。
むしろ暴力団なら、いちいち路上の警備員相手にキレはしないだろう。
そして当然のことながら社会的三角形の上の方に部類される人らでもない。
連中ときたら、職業柄なのか公道ではやりたい放題なのである。
そして、その店への搬入でかかわる人たちもまた「類は友を呼ぶ」ではないが、工事にたいして理解のまったくない人ばかりだ。
仮にその店へのライフラインの工事であっても、彼らの態度は変わらない。
てか、そこまで思考しない。
いや、できないのか。
ふつう商売上の得意先のライフライン工事に対しては、出入りの業者は愛想をつかうものではないのか。
それが一言目から「どけろ」「邪魔だ」「いつまでやってんだ」といった具合。
ある先輩が冗談としてこう言った。
「あの店だけ電気・ガス・上下水道・NTT、全部切っちゃえよ」
しかしまあ、それにしても首を傾げてしまう。
あれはなんなんだろう、と。
いわゆるあれが「コミュ障」とかいうやつではないかと彼らに遭遇するたびに首を傾げてしまう。
人とのコミュニケーションが苦手だからその職業を選んだのだろう。
とこの件に関して議論するときまってそんなことを言う人がいる。
むろん例外的に協力的な人もいることはいるよ、とふぉろーはしておこう。
その店には元警備員だという人がいて、その方はいつも「ごくろうさま」と会釈をくれる。
そのほかにも一人、寡黙だが塞ぎこんではおらず、頑として道交法を守って誘導に従ってくれるお方がいる。
『その人だけ』が、歩道上はバイクを押して歩いている。
『だけ』ね。
まあいいや。
どんなに蔑まされた分野にも、天使はいるもので。
回りくどくなった。
まあ舗装工事中の施工部分というのは、踏み入られたくないもので。
あたしらはカラーコーンやトラバーといった保安材で現場を囲い、なおかつ迂回をお願いするのだが。
『そいつ』は、いつも関係なく入ってくるのだ。
しかも態度は反抗的ではなく、
怒りも、苛立ちもなく、
注意の言葉も届かず、
ただただ『無』のような表情でバーをまたぎ、現場内の道具類を自らの通行に必要なぶんだけ蹴ってどかして侵入し、誘導員の制止の言葉にも『無』のままに通過して、そしてまたバーをまたいで出ていく。
あれはなんなんだろう。
年度をいくたびかまたいできた工期のなかで、毎日のように『そいつ』の粗暴に耐え忍んできた現場関係者たちであったが、この日、ついに現場代理人がキレた。
奴の同僚だか上司が仲裁に入った。
が、その仲裁者もまた『そいつ』の態度には日々憤りを感じているとのことで、いっしょになって叱ってくれた。
奴、仲間に強いられるような格好で頭を下げはしたが、その表情もまた『無』である。
せめて羞恥や反省、あるいは反抗的な表情でもうかがえれば、そこに辛うじて『人』を見いだせるのだが。それが無い。
『無』
なのであーる。
かえって心配してしまう。
対人関係をまったく必要としない職業など、無いのだから。
あのままでいったいどーなるんだろう。
まだ彼が10代20代のガキんちょなら『人』としての「のびしろ」も期待できようが、少なく見積もっても30代後半である。
心の扉はサビついて、すでに壁と同化しかけていることだろう。
あるいはなおも頑なに閉じつづけ、やがて老いとともに蝶つがいがサビ落ちて、開きっぱなしになる可能性もないではない。
人間、だれにも迷惑をかけないで生きることなんかできっこないものだが、あれは無いだろう。
社会のなかで『無』を決めこみながらも社会生活をしていくことがどれだけ迷惑なことか。
騒動となって、店舗内のスタッフたちが何ごとかと出てきたが、それきりだった。
仲裁に入った一人が、一喝したのみ。
悶着のあともあたしゃそれとなく彼を観察していたが、仕事場でも孤立しているらしかった。
誰もそいつにかかわらない。
フォローする仲間がいない。
同僚のなかに仲裁者があらわれて、しかも彼がまた叱ってくれたのがせめてもの救いなのかもしれない。
うちらの代理人がキレたのも、人間的だ。
大概の第三者は面倒ごとは無視するもので、その無視が連中に対する『世間』の甘やかしになってもいる。
ましてや現場というのはクレームを極度に嫌う。
穏便に済ませようとする。
そこに連中はつけこんでくる。
実は、『そいつ』は未来の芸術家で、
奴の死後に膨大な数の作品がその部屋から発掘されて、認められて……。
なんてことになったりしてー。
などと、この件をサカナに仲間と妄想話に盛り上がった。
それもまた「胸がすいた」からこそのこと。
何も解決はしていないのだけれどね。
ほんとにほんとに嫌だったのだ。
奴らが。
その扉は内側からしかあけられないのです。
他者にできるのは、ノックすることだけ。
胸の扉なんつーもんはただ大きく開かれてればいいとは決して思わない。
見たくもないきったねえ部屋のなかをさらけ出されても、かなわない。
きれいだろうが、おっぴろげはノー・サンキューだ。
そして、閉じられた扉は他者が無理矢理にこじ開けるべきでもないとは思う。
んが、
たとえば自分の住む集合住宅(よーするに社会の喩えね。)に開かずの部屋があるという感じですからね。あれは。
廊下ですれ違っても『無』。
テレビや音楽の音量も、周囲を『無』としてとらえているから遠慮が無い。
公共という概念がすっぽ抜けているから、ゴミの捨て方も、共用スペースの使い方のマナーもなにもない。
そいつのカブの乗り方を見ていると、そんな感じなのであーる。
狭い路地で、後続車があるにもかかわらず車道に路駐して車列を堰き止めるのである。
T字路の真ん中に路駐して、そいつのために路線バスが左折しきれずに立ち往生するというシーンも目撃した。
よく免許がとれたものである。
あれはなんなんだろう。
ね。
☾☀闇生☆☽