福本伸行著『最強伝説黒沢』ビッグコミックスピリッツ 全十一巻 読了
生まれたての赤ん坊というものは、まことにもって純なものである。
存在として確かだが、形として不安定で、
何色にもそまっていない。
まだ自己は確立しておらず。
やがておぼろげながらに『ワタクシ』を獲得するのだろうが、個性は拙い。
むろん『個別性』はある。
がそれは『個性』とまでは呼び難い。
『公*1』的な性格もまた然りである。
なぜなら個性の輪郭は客観的な事実が形作るのであり。
それは、ただ生存しているだけの『ワタクシ』と『公』との接点に、
そのせめぎ合いに、少しずつ確立されてくるからだ。
まず、名前を得る。
これが外に通じるドアである。
声を発し、
意思を発信して、
あるいは受信して、
身体的特徴があらわれるごとに、
そしてやがて、すること、成すことの蓄積で、
すこしずつ色と形を獲得してゆく。
それらが公的性質を増すごとに、
個として、確定してゆく。
ニンゲン、生まれてからずっと自由に生きることを目指す。
この曖昧で手前勝手な『自由』ということばをやめて『自在』と言い換えたらどうだ。
そうのたまったのは押井守である。(『平凡として生きるということ』幻冬舎新書)
自由に生きる。では『ワタクシ』を増長させるイメージが強く。
そんな自己中の野生児が、思うままに生きられるわけがない。
なにかと衝突して、かえって不自由だろうに。
むしろあらゆる面で個として確立してゆくことのほうが、自在だ。
そもそも、思考や活動の根本におく『言葉』それ自体が、窮屈でちっぽけな『ワタクシ』から外へ、公へ、という希望の産物ではないのか。
我々は希望する生き物ではないのか。
もしくはワタクシを外へ、なのか。
目指すのは、自在に生きること。
三重苦のヘレン・ケラーは言葉という制約を得て世界を知ったのだ。
『ワタクシ』の牢獄から『公』へと解き放たれ、その狭間で「個人」を確立した。
その後の活躍をふまえれば、
それは彼女なりの『自在』をモノにしたとも言えやしまいか。
ともかく、
自由を自在と言い換えただけで、裏返ってしまうのだから世界は面白い。
一見しょぼくれたおっさんが、その実『自在』の達人であったことに気づいたりする。
たかだか企業戦略にすぎないファッションの流行や、政治の風潮にはとらわれず。
それでいて豊かな人脈を持ち、
頼り、頼られ、
経済的にも、精神的も、そこそこ満ち足りている。
そこへいくと、
ここでの主人公黒沢は四十代半ばで、ヒラの現場監督で、独身、カノジョ無し、ぼろアパート住まい。
友人といえるツテも無く、職場での存在感も薄い。
てか、無い。
おまけにメタボで、ゴリラ似で、人望がゼロ。
なんてことだ。
人生の折り返し点を過ぎてこの体たらくなのだから、危機感は必然だわな。
それでも「ありのままの自分でいい」とうそぶいておられるほど、ニンゲンは強くはなれないのだ。
諦められない。
仙人じゃあるまいし。
もしそれを諦めれば、この物語に出てくるホームレス、もといホープレスになってしまうではないか。
自由気ままに見える彼らもまた、世間という外圧におびえ、不自由を余儀なくされているのだった。少しも自在でなんかありはしない。
なんせあたしたちゃ『ワタクシ』の外へ了解を得てはじめて『個性』を持つ生き物なのだ。
それあっての『自由』だろう。
もとい『自在』だ。
嗚呼、認められたい。
せめて人望がほしい。
だれかの役に立ちたい。
なんなんだ、この俺の日々。
この窮屈感。
俺、ちっとも『自由』じゃないじゃん、と。
『自在』じゃないじゃん、と。
はい、そうです。
これは黒沢が『自在』を獲得しようとする物語なのです。
ただ生まれてきて、ただ生きているだけでは『自在』は獲得できない。
それは卑怯な保身にも、目先の損得勘定にもとらわれない『ワタクシ』の外側にある。
ときにそれは、勇気を持って行動してはじめて手に入れられるわけで。
極論すれば、命と引き換えに獲得することもあるわけで。
ネタバレになるが、
最終的に黒沢は、それを勝ち得たのだと思う。
行動の結果、ここ一番に召集できるコネクションを得た。
俗にいう、仲間である。
ちっぽけだがこれもかけがえのない『自在』のいちピースである。
それと不器用ながらもホープレスたちの人生に変化と関わりを持った。
それが正解かどうかは別の話だ。
そしてなにより自身の死を惜しんでもらえる価値。
これも個性の外殻として、重要である。
うん。
充分じゃないか、黒沢。
お前、ギリ、間に合ったよ。
泣いてくれる友。
人生、それだけあればアガリでいい。
☾☀闇生☆☽
*1:いわずもがな公はひとりひとりの中にある。必ずしも国家機関のみをさすわけではないよ。