有名人による政治的発言について、巷で議論されている。
歌手は歌だけ歌ってろ、的な。
あんまりな言いようではないか、……と思ふ。
有名人も個人であり、発言の自由はあるだろうと。
そう、自由はある。
支持する政党や政治家だってあるでしょう。
問題はそれを有名人としての伝播力を利用して表明するところにあるのだろう。
たとえば米国などでは、有名な俳優や歌手が支持政党を公言したりするのはあたりまえになっているよね。
しかし、思ふのだ。
そこに生じている苛立ちや嫌悪感てなんだろうと。
たとえば歌だけ歌ってろ派は、
その好きな歌手が、自分と政治指向が異なっていることに、嫌悪感を抱いたのに違いない。
いや、政治指向が同じであるのにそこに嫌悪感が生じたのならば、まだ冷静な意見なのかもしれないのだけれど。
はたして、有名な彼や彼女たちの政治指向を知ったうえで、それとは別にその表現する歌なり演技を受け止めることができるのか、という疑問があって。
わかりやすく言うと、
贔屓にしていた寿司屋の大将が安部政権支持だと知って、客の反安部はその後もそこの寿司を口にできるのかと。
同じように楽しめるのかと。
作り手の政治指向とは別に、その人のつくる商品を受け入れることがあたしらにできるだろうかと。
そういうことでしょ。
実際にはその寿司は味も形も変わりがないはずだが、それまでとはまるで違ったものになってしまうのではないだろうか。
大将に「いやなら来なければ結構」という覚悟があれば、それを続ければいいだろうが。
そんな大将の信条とは別に、支持政党や宗教や国籍などの違いに関係なく、うまい寿司はうまい寿司であってほしいと望むのが客というものでしょう。
黙ってうまい寿司出してくれよと。
寿司屋はだまって寿司握っててくれればいいんだよ、と。
同性愛をカミングアウトした俳優が、その出演する映画のなかで異性間の恋愛を演じていると、内容に感情移入できなくなることがある。
そこに『役』を見ようとするのだが、俳優の素を見てしまう。
それでもその『役』をリアルに感じさせるのが、プロなのだろうけれど。
これは同性愛に寛容か否かの問題ではないと思ふ。
仕事そのものよりも、ワタクシが幅を利かせる時代になっているのだ。
若い頃、営業をしていたとき、先輩にこんな忠告をされた。
政治とスポーツと宗教、それとシモネタ話は客とするな。
贔屓の政党。
贔屓の野球チームやクラブチーム。
信教。
性癖。
これらのズレは、敵を作りやすいのだという。
セールスしている商品には直接関係ないが、そういうところから客との決定的な距離が生まれる。
それでも「政治的発言をするのは個人の自由だ!」と営業マンが握りこぶしをあげたところで、残念なことにしかならない。
それが現実だ。
商品(仕事)を挟んで客と自分。そこに売り手の『ワタクシ』はいらない。
で、あたしはといえばだ。
あたしはこのようなことをえらそーにのたまいつつも、いうほど民度が高くない。
上から目線ではなく、下から目線。パンツ丸見え目線の仰視でものを見ているつもりでなのであーる。
それは、プロの仕事は仕事で語って欲しいとする古い視点のニンゲンだ。
その人が仕事で生み出す品や芸にはこちらが想像する余白(自由)を求めてしまう。
だから「黙っていろ」とは言わない。
趣向が違おうが対立しようが、それを含めて好きでいられる間は、腐れ縁よろしく勝手に好きでいようと思ふ。
たえられなくなったならば、黙ってそっと去ればいい。
それだけだ。
闇生