このセリフは、映画『タクシードライバー』で有名。
言わずと知れたマーチン・スコセッシ監督の代表作で、主演のロバート・デ・ニーロの名を世に知らしめた傑作だ。
アキバの無差別を考えていたら、これを連想してしまったのである。
映画はフィクションだが、そう踏まえたうえで以下、つらつらと。
デ・ニーロ演じるタクシードライバー。
彼はベトナム帰還兵で、自らの不眠症を活かした終夜勤務で日銭を稼いでいる。
不眠症の原因が、戦場でのストレスによるのかは、ここでは一切語られない。
が、
彼には友もなく、
家族もなく、
また恋人もなく、
そしてなにより笑顔がない。
ただ毎晩、街の闇をタクシーで寡黙に流していくばかりなのである。
あるとき彼は、ふと選挙演説中のとある候補者の暗殺をおもいたつ。
そのために肉体を鍛え、銃器をそろえる。
鏡にむかって入念に犯行のシミュレーションを繰りかえす。
犯行現場でシークレット・サービスに不審尋問をうけるのを想定しているのだ。
冒頭にかかげたセリフはそのときのもので。
執拗に呼び止めるシークレット・サービスに、
「え? 俺? 俺に言ってんのか?」
(ちなみにこれ、デ・ニーロのアドリブだそうな)
彼がターゲットをその候補者に決めた根拠は、あられもなく希薄であった。
うすっぺら。
てか、無い。
おそらくはその政治主張に具体的な反意を抱いて、というのではないだろう。
孤独ゆえに芽生える独善と、
その反作用としての、いわば破壊欲。
孤独は「だけ」を生むのだ。
(俺「だけ」が間違っている)=(世界が正しい)。
(俺「だけ」が正しい)=(世界が間違っている)。
正しさと誤りが表裏一体となれば、自殺と他殺もまた表裏だ。
自傷や自虐が、ときとして露悪とセットとなり、両刃の剣をなすように。
この手合いは、破壊をもって自滅としたがるのではないだろうか。
だからその発端に理由らしい理由はなく、孤独とそれによるストレスだけが横たわっているに過ぎない。
根拠の希薄。
それすなわち、この人物の希薄。
映画はその哀しみを強調していた。
しかし、そんな孤独の底で、彼は異性に恋心を抱く。
そこはやはり♂である。
が、いかんせん社交性がなく、
ゆえに客観性も乏しく、
それはもう痛々しいほどで、
哀しいかな、初デートで彼女を行きつけのポルノ映画館に連れ込んでしまうのだ。
残念。
むろん、その場でふられる。
しかし、彼は自分にとってもっとも興味深いものとして、大切なものとして、そこを選んだわけで。
ポルノ映画というものに、世間からは正当に評価(理解)されない自分を、投影していたのかもしれない。
していたのだろう。
その上で、
世界を敵に回した孤軍としては、せめてわが身の『不当』の理解者が、つまりは同志がほしかった。
普通ならこんなシーンはコントだ。
だっふんだ。
変なおじさんだ。
んが、
主人公のストイックなまなざしが、笑いに落ちるのを許さない。
真剣であるがゆえに、それは狂気にほかならないわけで・・・。
でね、
これね、
たとえば現代ならばね、
エロゲーやエロフィギア、エロ漫画の芸術性や技巧、メッセージについて熱弁をふるう(精神的な)引きこもりだったり、、、する。
と思う。
少なくともそう連想することで、この映画は強烈な現代性をもつと。
はい、
連日報道される無残な事件を頭において、のたまっています。
映画の犯行プランには、動機なんぞ無きにひとしかった。
だが、政治家を標的とすることで、根拠の体裁をかろうじて装った。
実際は装えてないんですが。
この装い『たがる』ところに、かすかだが正義の意識が残っていたのではないか。
だからこそ、それが後半、未成年の売春婦を救出にむかう蛮勇に化けたのだ。
なりふりかまわぬ暴発に、明確な『根拠』と『目的』とを得て。
言ってしまえば『大義』だろう。ただし、彼なりの。
(布石として、いわれの無い高額チップを嫌悪するシーンに、彼の世間への蔑視と正義観が垣間見られた。)
そして、その復活した人間性は、やはり少女との接触によって蘇生されたのだと言っていい。
コミュニケーションである。
ところがだ、
最近の実際の『無差別』には、この装いたがりすら見当たらない。
正義観がなければ、罪悪感も生まれようも無いのだ。
それから、もうひとつ。
漫画家、萩尾望都の短編をもとにした野田秀樹の芝居『半神』。
これも連想した。
とある岬の突端。
そこに建つ灯台のなかに、双子の少女が住んでいて。
その名も修羅とマリア。
修羅は容姿醜いが、賢く。
マリアは愛らしいが、白痴。
二人は肉体の一部を共有して生きてきた。
そう、ベトちゃんドクちゃんのように。
が、問題はその箇所だ。
よりにもよって共有しているのは、分け合えないたったひとつの心臓だったのだ。
そのまま成長すれば、心臓には通常の倍、負担がかかる。
しかしながら、肉体を分離すれば、どちらかが死ななければならない。
どちらを生かすか。
両親は残酷な選択をせまられ…。
といった筋である。
世間体を気にする両親により、この双子は隔離されていて、世界を書物でしか把握していない。
そんなわが子に世界を教えようと、親は家庭教師を雇う。
賢い修羅、曰く。
「ねえ先生。孤独って本当は素敵なんでしょ」
ほんとに孤独がつらくて不幸なら、みんながあんなに本に記すわけないもんと。
なんせ開く本、開く本、孤独についての嘆きばっかなんだ。
さびしい、さびしい、つってんだ。
きっと、嘆きながら陶酔してるに違いないと。
そういう修羅は、生まれてこのかた片時も孤独になれたことがないのである。
孤独というものを表現するのに、孤独でないものを。
いや、孤独になれないものを対比させる。
その究極として、修羅とマリアを生んだのが秀逸。
残酷にも修羅は、マリアを捨ててでもと、孤独を欲するのである。
「孤独は怖い」
といいながら、
その実、一人になれないのは鬱陶しいと。
それがあたしたちだ。
ひしめき合って街頭テレビに群がっていた時代から、一家に一台、一人に一台。
オーディオも、電話も、似たような道を歩んできた。
ひとりぼっちの必然性を固めてきた。
むろん、来た道は引き返せないのかもしれない。
もはや自分たちで積み上げた利便性に切り刻まれ、分離されて嘆く、その絶望を共有することでしか、つながれないのだろうか。
んじゃ自傷、自虐じゃねえかって。
おいおい。
え?
「You Talkin’ To Me?」
いいえ、独り言っす。
☾☀闇生☆☽