ドストエフスキー著、安岡治子訳『地下室の手記』光文社古典新訳文庫 読了
恥ずかしながら何度目かの挑戦でこのたびようやっと新訳版で読了した次第。
めでたし、めでたし。
音読して一気にやっつけた。
難関はなんといっても延々と出口の無い独白の続く第一部だ。
自意識の檻に引きこもった主人公の孤独のこじれが重く、そして痛々しい。
知的嘲笑が、自嘲が、自虐が、これでもかと綴られている。
帯に『“自意識”の中で世界を嗤う男』とある。『苦痛は快楽である』とも。
これに尽きるだろう。
そして訳者のあとがきにもあるように、原作の時代よりも現実はさらに『個人』化が進んでいるわけで。
閉ざされた自意識の密室からネットを通じて世界を覗き、嗤い、根拠の希薄な優越感にひたる一方でその孤独をこじらせ、自嘲を深め、ナマのコミュニケーションに飢えていくことがままあるわけで。
と気づけば即座に、主人公を身近に感じることができるのだな。
こんなやつ居るよねえと。
これもひょっとすると『中二病』というやつなのか。
愚かで、滑稽で、ときに我がことのように赤面してしまう。
被害妄想のなかで復讐心を猛らせるが、実際的行動にはいたらないあたり、さながら思春期のモテナイ君ではないか。
俺じゃね? と。
その境地にさえ至れば、とりわけ後半の第二部はページが進むだろう。
ポイントはその中二病をこじらせているのが役所勤めを辞めた四十歳のひとりもんというところか。
失業中。
独身。
中年。
男。
友人無し。
恋人無し。
財産無し。
出口なし。
成熟など、エスカレーター式に達成できるものではないのだ。
むしろ真摯にそして執拗に自己を問い続けるからこそ、永遠にこじらせつづけることがある。
追記。
モノローグ物だから音読にはハマります。
ずっぱまりです。
気分は一人芝居の柄本明です。
感情もこもります。
けれどそれを隣人が聞けば、狂人の独り言にすぎません。
ましてや本作は自他に攻撃的になるまでに肥らせてしまった自意識の、その苦悩なのですから。
それを客観すればまことに矮小で滑稽ですが、主観の密閉化は狂気でしかありません。
怖いっす。
隣にこんなヤツが住んでいたら、心底恐いっす。
自虐も自傷も、その反作用の感情とワンセットなのです。
音読の際にはご注意を。
☾☀闇生☆☽