壁の言の葉

unlucky hero your key

『アモーレス・ペロス』感想。

アモーレス・ペロス

 アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督作『アモーレス・ペロス』DVDにて。



 なんせ監督の名前からしてこうだもの。
 絶対に覚えられないというゆるぎない自信がある。
 あたくし的にはアレハンドロ・ホドロフスキーが限界なのだ。
 この名前を淀みなくすらすら言えたというただそれだけで、映画通になれたような気になっていられたというのに。
 こんな名前で、
 しかも作品がすこぶる良いとなると、どうしたらいいのだろう。
 『バベル』で世界的な存在となった今後は、なにかと話題になるはずなのであーる。
 アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ
 略して、
 ドロレス、とか。
 ともかくも、こうしよう。登場人物をふくめて名前がややこしいので、ここでは映画のなかの固有名詞を、闇生的に変換していく。




 以下、ネタバレで。








 物語は三部構成。
 三つの話を、ひとつの事件が繋いでいる。
 まずは、兄弟の物語。
 太郎と次郎。
 ひとつ屋根の下にこの兄弟は暮らしていて、兄太郎には妻がある。
 妻は日夜この夫からDVを受けていて、次郎はそれが耐えられない。
 同情からか密かにこの兄嫁に恋をしてしまうのだ。
 やがて彼は、飼い犬の万太郎を闘犬の賭け試合に出場させることを思いつく。
 その賞金をもとでに兄嫁と駆け落ちをしようと企むのだ。
 兄嫁の同意も得、次郎はちゃくちゃくとその計画をすすめるのだが、あまりに強い万太郎に、いつしか闘犬の対戦者であるギャングから恨みをかうことになってしまった。
 コトはこじれにこじれて、ついに刃傷沙汰のトラブルに発展してしまう。


 二話目。
 トップモデル花子とプロデューサー輝夫。
 二人は恋仲だが輝夫には妻がある。
 そのために人目を忍び、マンションで同棲を始めることに。
 ささやかながらも仕合わせな日々を得たわけだが、その生活に不穏な影が。
 交通事故で花子が車椅子生活となってしまうのだった。
 モデルである彼女にすれば致命的な怪我であり。
 しかも重傷で、もとのモデル稼業に戻れる見込みもまったく立っていない。
 輝夫が仕事に出ているあいだ、花子の孤独のよりどころといえば、飼い犬のチビだけ。
 しかしある日、そのチビが床に開いた穴に落ちてしまうことに。
 懸命に呼ぶが、チビは戻って来ない。
 時が過ぎ、
 日が経っても、チビは帰らない。
 床下を走りまわっているらしい物音と鳴き声はするのだが、それだけである。
 言わずもがな花子にとっては先の見えない日々だ。輝夫との関係も冷えて、すさんでいくばかり。して、それを象徴するかのような床下の闇の中。さまよっているらしいチビの物音。
 このチビを闇から救うことこそが、二人の関係を。もとい、花子を救うことなのだと輝夫は確信するに至るのだ。


 三話目。
 猪四郎。
 かつてはレジスタンス運動の闘士だった彼も、いまやホームレスだ。
 いや、
 実はそんなナリをした殺し屋として生計をたてていた。
 ホームレスがてらに殺しを請け負っているのか。
 あるいは、殺し屋がホームレスに扮しているのか、実のところ判然としていない。
 何匹もの犬を引き連れ、ぼろぼろのワゴンを押して街をゆく彼を、誰も殺し屋だとは思わないだろう。
 彼はかつて運動のために家族を捨てていた。
 所詮は大義のまえの私事として後悔はなかったはずだった。
 が、やはり殺し屋も人である。
 残してきた娘だけを、深い未練としている。
 肉親を殺害してくれなどという非情な依頼まで請け負う彼だったが、きっと娘への未練と犬との生活が、辛うじて人間性を保つカナメになっていたのに違いない。
 有体にいえば、やさしさである。
 しかしそのやさしさが、時にわざわいを生むこともあって。
 ある日、ひょんなことで拾ってきた瀕死の黒犬、万太郎。
 猪四郎は万太郎を手厚く看護し、助けてやるのだが、全快すると万太郎は周囲の犬たちをすべて噛み殺してしまうのだ。
 怒り。
 嘆き。
 悲しみ。
 猪四郎は万太郎に銃口をつきつけるのだった。



 さて、
 こういう構成のおはなしの場合、問題はこれだ。
 なぜこれらの物語を一話ずつ個別の映画にはせず、ひとつの映画として繋げたか。
 繋ぐことそのものに意味が感じられないと、単に、繋ぎましたというパズル的カタルシスのみになってしまう。
 それではまだ薄い。
 もうひとこえ欲しい。
 んで、
 闇生は鑑賞能力が乏しいのか、この作品からはそれを強くは感じなかったという次第。
 ひとつひとつのお話はおもしろいし、助けた犬に飼い犬を全滅させられるくだりや、約束したはずの駆け落ちを捨ててまでDVの夫を選んだ兄嫁や、床下で生き続ける犬の話など、はっとさせられることも少なくない。
 それぞれが良質な短編小説になるだろう。
 けれど、
 繋ぎが起こす映画的マジックは、薄いのだ。
 むしろ、この形式の映画なら、傑作の『ビフォア・ザ・レイン*1』(ミルチョ・マンチェフスキー監督)のほうが、数段上ではないのか。



 あれはただ繋ぐことを避けて、ひねったとこがミソで。
 つまり、あえて時間軸に矛盾をつくり、メビウスの輪のようにひねって繋いだのね。
 そのことで、悲劇を繰り返しつづける人間の度し難さをあらわしていた。
 あの時代、この手の構成の先駆者として『パルプ・フィクション』や『恋する惑星』という傑作がすでに出ている。
 なので、もうひとひねり、と考えたのだと思う。
 で文字通り、ひねった、のだ。
 宗教や民族紛争を土台にする以上は、それら人気作の二番煎じではダメだと。
 ここでは『繋ぐ』、
 それ自体が映画的カタルシスとして、
 なおかつ物語的クライマックスに見事なまでに昇華しているのだ。


 実を言うと闇生、ドロレスの出世作『バベル』が見たくて、まずはこれに手を出した次第である。
 で、
 今作がデビュー作だという。
 となれば、『バベル』はこれよりも成熟しているというのかと、
 にやり。


 ついでながら、
 音楽にもっと統一性を持たせた方がいいと思う。
 ジャンルがさまざまに飛んでいるのはいい。
 けれど、なにかテーマ性を共通させるなりしないと。


 さらにつけ加えて、犬。
 この映画は犬が重要な役割を担っている。
 三話とも犬が出てくる。
 特に闘犬のシーンは残酷で、「いわゆる」犬好きは目を覆いたくなるかもしれない。
 特典のメイキングをみると、発情して、早く早くと合体したがっているツガイを、編集の妙で闘っているように見せているのに過ぎないのだが。
 それは別としても、死骸の肉感がなまなましいのだ。
 あれは麻酔で眠らせているのだろうか。
 だとしても、動物愛護運動的視点で見よ、とは言わない。
 言いたくもない。
 映画やら娯楽というものは、そもそもそういうものだからである。
 ニンゲン。常識とか良識とか秩序とかいうもののなかで生きていかなきゃ、にっちもさっちもいかない。
 けど、
 それオンリーだと窮屈になる。
 野卑や野蛮もまた、ニンゲンの一側面だからである。
 なので、
 その部分のガス抜きのために、映画やら、格闘技観戦があって。
 そこに殴り合いや殺し合いがあって。
 そうやって社会が保っている。
 文明が保っている。


「人間は本音では文明に付き合いたくない」。


 とは談志の名言*2






 長尺だが、くたびれずに見ることができました。
 猪四郎、すこぶる良し。


 ☾☀闇生☆☽

*1:観なさい。

*2:立川談志著『世間はやかん』春秋社