壁の言の葉

unlucky hero your key

駆けろ。

ICE/ICE3



 なんせ思わず、駆け出すのだ。

 
 子供なんてものは。
 風に舞うレジ袋なんぞを、夢中で追いかけたりする。
 が、断じてレジ袋をつかまえたいのではない。
 そうしたところで、どうしたいのだか自分にもわかっていないはずで。
 その証拠に袋をとらえると、ただちにまたそれを風のなかに放つのだ。
 でもって、また追うんだな。
 その風に、感極まって、理屈そっちのけで駆け出す。
 おそらくは自分が駆けていることなど意識していないはずで。


 あ、友だちだ、で駆け出す。
 うんこ踏んだ、で駆け出す。
 なにもなくても、帰り道に唐突に駆け出す。
 とうに子供であることをやめてしまった親には、その機微がわからないから、持て余してしまう。
 実は、あれは、感情表現なのだ。
 笑う。
 泣く。
 と同じように駆ける、がある。
 跳ねる、もある。
 言葉が足りないぶんだけ、子供は全身で表現しようとしているのに過ぎない。 

 
 大人になるにつれ、いつしかこの駆ける、というのが手段になってしまった。
 時として目的にさえなってしまう。 
 ともすれば、ジムのコンベアーで黙々と処理する行為になりさがっていたりもするわけで。
 駆ける、という行為にひとつ敷居をもうけて、
「どっこらしょ」
 的なものにしてしまっている。
 とてものこと、もはや『思わず』駆けだしたりはしない。
 

 小学生の頃、地域ごとにスポーツ少年団というのがあった。
 闇生はそのサッカー部に所属していて、持久力をかわれて主にMFをまかされた。
 ひたすら走っていた。
 その流れで中学でもサッカー部を選び、卒業まで在籍した。
 ここではひたすら走らされていた。
 ポジションはDFに落ち着いた。
 味方DFと連携して、最終ラインを調節しながらオフサイド・トラップをしかける。
 すると、敵はその裏をついて、DF陣の頭上をこえる縦パスを放つ。
 空に打ち上げられるボール。
 高々とだ。
 追って踵を返し、バウンドしながら点々と逃げていくボールに、敵FWとせめぎ合って追いすがる。
 練習にしろ、試合にしろ、ひたすら駆けどおしの苦しい毎日だったが、この頭上をこえていくボールを追う瞬間だけは、快楽に似た喜びを感じていたもので。
 走らされているのでもなく、
 義務感でもなく、
 純粋に走っているのだ。
 なぜなんだろう。
 おそらくは犬が、夢中でボールを追うように、きっと理屈が吹っ飛んでいるのかもしれない。


 高校ではサッカーを選ばなかった。
 が、
 ジョギングは続けていた。
 哀しいかな、部活でしみ込んだ『競う』という癖が抜けない。
 ために、走り出すと知らずに自らに全力を強いてしまっていた。
 ひとりSMである。


 それがだ、
 上京してから、とんと走らなくなってしまったのだ。
 暴飲暴食で肥満して、さすがにこりゃいかんぞ、と。
 一念発起で走ってみようとしたのだが、信じられないことに、走り方を忘れてしまっていた。


 僕たちは何故に
 駆けだすことを忘れてしまったのか
 (ICE『ICE3』収録「17」より)


 なんていう比喩ではない。
 本当に走り方がわからないのだ。
 とくに蹴った足の着地の仕方が、はて踵からだったか、つま先からだったか。
 ぎくしゃくやっているうちに、手の振りやら、姿勢やら、なにからなにまでが不自然に思えて。
 さながらポンコツロボットだ。
 何をやってんだか、俺は。
 己の退化をまざまざと、知った。
 先に記したように『駆ける』も『表現』のひとつだと解釈すればだ、表情をひとつ失ったような。まるでそんな喪失感である。


 もちろん、大の大人が街中で『思わず』駆けだしたりするのは考えものだろう。
 それをセーブさせている何者かを、社会的な制約云々の所為にするのも、アホらしいし。
 けれど一度、『駆ける』もまた表現であると意識すると、体がちょっと楽になる気がするのだ。
 可能性を知って。
 たとえば演劇のひとたちがやるワークショップには、それを意識させる役割もあるのだと思う。
 必ずしもそう使わなくてはならないわけではないが、そんな使い方もあるのだよと。
 知っておくだけでも、まったく違うでしょ。

 
 闇生は休日にウォーキングをする。
 一時間。
 駆けたくなったら、素直にそうすることにしている。
 歩きたくなったら、また歩きに戻すし。
 そして、健康のために、だなんて下心は持たないようにしている。
 見返りを期待しての運動だなんて、いやらしいと思うのだ。
 運動に下心は要らない。
 損得勘定はどがえしだ。
 だから、
 健康につながるかどうかなんてのも二の次。
 ばかりか、喫煙者がたばこを吸うようなものだとまで考えるのだな、あたしゃよ。


 そう考えると、
 ICEの使った比喩は、あながち比喩だけでもないのだなと。


 楽しいとか、
 気持ちいいから歩くし。そんな風に歩けと。
 走れと。
 面白いから笑う、そんな感じに走ればいいじゃんかと。
 



 決して、笑いながら走る、という意味ではないのだぞと。
 念のため。




 ☾☀闇生☆☽


 追伸。
 いま思い出した。
 「うれしいとき、思わずでんぐり返しをしてしまうような女の子」
 宮崎駿は、それを描こうとして『パンダコパンダ』を作った。
 失われつつあるものを、スクリーンに復活させようとしたのだろう。