なんせ思わず、駆け出すのだ。
子供なんてものは。
風に舞うレジ袋なんぞを、夢中で追いかけたりする。
が、断じてレジ袋をつかまえたいのではない。
そうしたところで、どうしたいのだか自分にもわかっていないはずで。
その証拠に袋をとらえると、ただちにまたそれを風のなかに放つのだ。
でもって、また追うんだな。
その風に、感極まって、理屈そっちのけで駆け出す。
おそらくは自分が駆けていることなど意識していないはずで。
あ、友だちだ、で駆け出す。
うんこ踏んだ、で駆け出す。
なにもなくても、帰り道に唐突に駆け出す。
とうに子供であることをやめてしまった親には、その機微がわからないから、持て余してしまう。
実は、あれは、感情表現なのだ。
笑う。
泣く。
と同じように駆ける、がある。
跳ねる、もある。
言葉が足りないぶんだけ、子供は全身で表現しようとしているのに過ぎない。
大人になるにつれ、いつしかこの駆ける、というのが手段になってしまった。
時として目的にさえなってしまう。
ともすれば、ジムのコンベアーで黙々と処理する行為になりさがっていたりもするわけで。
駆ける、という行為にひとつ敷居をもうけて、
「どっこらしょ」
的なものにしてしまっている。
とてものこと、もはや『思わず』駆けだしたりはしない。
小学生の頃、地域ごとにスポーツ少年団というのがあった。
闇生はそのサッカー部に所属していて、持久力をかわれて主にMFをまかされた。
ひたすら走っていた。
その流れで中学でもサッカー部を選び、卒業まで在籍した。
ここではひたすら走らされていた。
ポジションはDFに落ち着いた。
味方DFと連携して、最終ラインを調節しながらオフサイド・トラップをしかける。
すると、敵はその裏をついて、DF陣の頭上をこえる縦パスを放つ。
空に打ち上げられるボール。
高々とだ。
追って踵を返し、バウンドしながら点々と逃げていくボールに、敵FWとせめぎ合って追いすがる。
練習にしろ、試合にしろ、ひたすら駆けどおしの苦しい毎日だったが、この頭上をこえていくボールを追う瞬間だけは、快楽に似た喜びを感じていたもので。
走らされているのでもなく、
義務感でもなく、
純粋に走っているのだ。
なぜなんだろう。
おそらくは犬が、夢中でボールを追うように、きっと理屈が吹っ飛んでいるのかもしれない。
高校ではサッカーを選ばなかった。
が、
ジョギングは続けていた。
哀しいかな、部活でしみ込んだ『競う』という癖が抜けない。
ために、走り出すと知らずに自らに全力を強いてしまっていた。
ひとりSMである。
それがだ、
上京してから、とんと走らなくなってしまったのだ。
暴飲暴食で肥満して、さすがにこりゃいかんぞ、と。
一念発起で走ってみようとしたのだが、信じられないことに、走り方を忘れてしまっていた。
僕たちは何故に
駆けだすことを忘れてしまったのか
(ICE『ICE3』収録「17」より)
なんていう比喩ではない。
本当に走り方がわからないのだ。
とくに蹴った足の着地の仕方が、はて踵からだったか、つま先からだったか。
ぎくしゃくやっているうちに、手の振りやら、姿勢やら、なにからなにまでが不自然に思えて。
さながらポンコツロボットだ。
何をやってんだか、俺は。
己の退化をまざまざと、知った。
先に記したように『駆ける』も『表現』のひとつだと解釈すればだ、表情をひとつ失ったような。まるでそんな喪失感である。
もちろん、大の大人が街中で『思わず』駆けだしたりするのは考えものだろう。
それをセーブさせている何者かを、社会的な制約云々の所為にするのも、アホらしいし。
けれど一度、『駆ける』もまた表現であると意識すると、体がちょっと楽になる気がするのだ。
可能性を知って。
たとえば演劇のひとたちがやるワークショップには、それを意識させる役割もあるのだと思う。
必ずしもそう使わなくてはならないわけではないが、そんな使い方もあるのだよと。
知っておくだけでも、まったく違うでしょ。
闇生は休日にウォーキングをする。
一時間。
駆けたくなったら、素直にそうすることにしている。
歩きたくなったら、また歩きに戻すし。
そして、健康のために、だなんて下心は持たないようにしている。
見返りを期待しての運動だなんて、いやらしいと思うのだ。
運動に下心は要らない。
損得勘定はどがえしだ。
だから、
健康につながるかどうかなんてのも二の次。
ばかりか、喫煙者がたばこを吸うようなものだとまで考えるのだな、あたしゃよ。
そう考えると、
ICEの使った比喩は、あながち比喩だけでもないのだなと。
楽しいとか、
気持ちいいから歩くし。そんな風に歩けと。
走れと。
面白いから笑う、そんな感じに走ればいいじゃんかと。
決して、笑いながら走る、という意味ではないのだぞと。
念のため。
☾☀闇生☆☽
追伸。
いま思い出した。
「うれしいとき、思わずでんぐり返しをしてしまうような女の子」
宮崎駿は、それを描こうとして『パンダコパンダ』を作った。
失われつつあるものを、スクリーンに復活させようとしたのだろう。