NODA・MAP 第十三回公演
野田秀樹作・演出『キル』
十二月二十九日 渋谷Bunkamuraシアターコクーンにて
再々演である。
初演は1994年。
セット、衣装、音楽など基本的には初演のままであった。
つまり初演で立ち上げた世界が、この物語にとっての正解に近いと。
そう野田が判断したのだろう。
不肖、闇生。
日頃さんざん、堤真一が主演をつとめた初演版をビデオで観ている。
そのおかげで細かい比較ができたのが、まずはなにより。
一見すると、改良は枝葉のことに限っているようで。
しかし、そのちいさな変化がどれだけの試行錯誤のうえに成り立っているのか。
それがどんなに大きな事件なのか。
そして、その飽くなき工夫の継続が、十三年も前の作品を『今』にぶちあてることにどれほど重要な貢献をしているのか。
とどのつまり『再生』させつづけることの大切さ、
(たとえばシェイクスピア諸作品がそれによって活きつづけているように)
痛感させられる公演だった。
以下、つらつらと。
ことさら、えらそーにのたまってみる。
所詮はエロ屋のたわごとだ。
そこはひとつ許されたし。
思うに、
『自由』なんて概念は―。
お国柄や、
民族や、
地域によって異なっているはずで。
べきで。
特にその違いは、それぞれにとっての自由を、具体化するときに顕著なわけで。
農耕民族ならば「おらが畑」。
それが財産だ。
どっこらしょと耕し、
せっせと種をまき、
えんやこらと水をやって、
草をとり、
害獣をとっちめ、
あまのじゃくな天候に一喜一憂し…。
と一年中その土地に、それこそ至れり尽くせりのお世話をして、んで、ようやっとおまんまにありつける。
土地に縛られるが、そのぶん育まれてもいる。
それが彼らの自由だし、平和だ。
一方、
遊牧民ならば「天地はみんなのもの」と。
牧畜の食む草は、だれのものでもないぞ、と。
地面に固有の持ち主はなく、より良い草を求めて草原から草原への旅ガラス。
それが彼らにとっての自由。
で、
冬が来れば、草のやわらかな南へと。
その行く先に耕す民がいたとしても、彼らに「おらが畑」は通じない。
大地の独り占めは自由の外側であり、敵だ。
耕す民もまた「おらが畑」の自由を押し広げようと北へ。
「地面に生えているものはみんなのものだ」
「いや、それを育てたもんのものだ」
双方が自由を押し合いへし合いして、争いが生まれる。
双方が双方の自由を『普遍』でござると言い張る。
曰く、
「Freedom!」
また曰く、
「No Border!」
カップ麺ですら文化・文明にあわせて成分をかえなくてはやっていけない。
それが現実というものだろう。
『戦争』は、自由と自由の衝突点に勃発するのであーる。
であるならば、
そこでただただ『抽象的』な『平和』をとなえることに、どれほどの積極的な意味が生まれるというのか。
現実が欲しているのは『具体的』な『交渉』だ。
ともあれ争い、
明け暮れ、
うんざりの果てに「もうこっち来んなよ」と壁が築かれる。
えんがちょ!
たとえばそれが万里の長城であったりするわけである。
さて、
自分に都合のいい『自由』こそが『普遍』でござるとグローバル(全域化)する。
それがグローバリズムだ。
そんな野望の歴史的一例をチンギス・ハーンの大遠征に見いだせはしないだろうか。
今回の『キル』は、そのグローバリズムのありようを考えさせられる公演であった。
この問題は、初演(1994年)の時点では、現在ほど意識されていなかったのではないだろうか。
その意味で、これは再演でありながら、まさに『今』に相対しているのだ。
再演する理由と、再演を劇場で体験する理由は、まさにその『今』との関係性のなかにある。
闇生はあらためてそう確信することができたのだった。
めでたし、めでたし。
後編へつづく。
☾☀闇生☆☽