先週、コクーンで芝居を観てきた。
松尾スズキ率いる大人計画の初期代表作『ふくすけ』を。
大竹しのぶや古田新太、多部未華子らを迎えての再演なのだが。
実をいうと闇生はいまだに感想を書きあぐねている。
たった一度の観劇でこのストーリーを把握するには、あたくし程度のオツムでは心もとない。
と、そんな作りでなのである。
といって、難解ではないんですけどね。
群像劇だし。
それゆえ場面は複数で同時多発的に進行して、なおかつ回想があるという。
少なくとも、もう一度は観ておきたい。
それも劇場で。
んが、つつましき我が収入を考えると、そうもできない。
ならば放映まで我慢するか。
という訳にもいきそうにないのだな。
なんせ冒頭から「マ〇コ」の連呼だもの。
それで客席は一気に揉みほぐされてしまうわけだが。
放映するなら無音かピー音まみれにするほかあるまいて。
畸形愛に溺れる学者のもとで育てられた孤児ふくすけが物語の中心なのだが、まずその見てくれからして放送コード的にあやしいし。
初演の頃、そのダイジェスト版をスタジオ上演しているが、温水洋一演じるふくすけは全身をボカシ処理にされていた。
復讐という純愛。
折よく、といおうか。いうまいか。
期せずして、というべきか。
先のイジメ問題に直結しているのも、見どころだろう。
タイムリーなので、はっとした。
そういえば、昔こんな事件があったなあと。
きっと松尾はあの事件をこの復讐劇の下敷きにしているはず。
そうふまえつつ闇生は思うのだ。
いじめという問題自体はタイムリーだが、被害者側のとるリアクションには、時代の差があるかもしれないなと。
ここでの被害者たちは、少なくとも生き抜いている。
自殺などという概念すら頭になかったのではないかと疑うほどに。
しぶとい。
くわえて、この作品の本来の魅力であろう『おどろおどろしさ』にも、時代を感じた。
メッキがとれて剥きだしとなった猥雑と混沌。そのなかに輝きを見出すのが松尾の真骨頂であるのだろうが。
現在は混沌が混沌のナリをしていないところに不気味さがあるのであって。
唐十郎的といおうか、見世物小屋的ないかがわしさは、この再演版ではそれほど作用していなかったように思う。
この作品にあらわれた数々のモチーフは、のちに大人計画の諸作品へと散開していく一方で。
反面、濃く深く煮込まれて小説『宗教が逝く』という傑作に昇華することになる。
そういう意味でも重要作品であるのは間違いない。
さてと、
おっとろしく長いが、充実のひとときだったかな。
何度も笑ったし。
隣の席の、ふてくされたライター風の女の人も笑ってた。
気付けば荒川良々もクドカンも猫背椿も出ていない。
いまさらだが層の厚い劇団であると確認した次第。
して毎度思うのだが、役者松尾スズキをもっと観たいぞと。
そせはもう、せつに。
多部未華子。声がよく届いていた。バリエーションはまだ少ないけれど、これ重要だかんね。
松尾のギャグや間というのは、松尾の肉体あってのものなので、客演さんには難しいのね。
だから大変でしょうけれど、これからが楽しみです。
それから安定の大竹さんと。
古田のそつなさ。哀しさ、みじめさが際立っていた。そして、沁みたよ。
平岩紙が、良かったなあ。
いい役もらったなあ。
住み慣れた自宅での手さぐりがオーバーなのと、
狂うところが突拍子もなく感じたが、総じて良かった。
で客席。
N列真ん中だったのだが、前の席の青年が終始咳き込んでいて気が散った。
その両脇の女の人があからさまに嫌がってマスクしたり姿勢を避け気味にしているのに、最後まで頑なに咳き込み続けていた。
まあ、高いからね。チケット。
風邪ひいてもくるよね。
がんばるよね。
せめてマスクしよう。
と思いつつ、これからはマスクは常備しておこうと心に決めたのであった。
彼だけでなく、咳き込んでる人が多かった気がする。
流行ってんのかな。ひょっとして。
それと隣のおっさんの、口をあけてガムを噛むくちゃ音。
よろしくない。
これはいただけない。
この季節、汗臭いのはお互いさまだが、くちゃ音は優しくない。
口をあけてガムを噛むな。
あたしゃそう大書した旗をかかげて、上半身裸で走り回りたかった。
劇場はみんなのもの、と。
とりあえずこんなところで。
☾☀闇生☆☽