後編は、おもに出演者について。
今回の主演は妻夫木聡。
大抜擢である。
作・演出の野田は、現代のファッション戦争と、歴史上のチンギス・ハーンの大遠征を、縦横無尽の言葉遊びと時空のジャグリングでもってダブらせている。
ここで妻夫木は大役テムジン(チンギス・ハーン)を任された。
この役のうまみ。それはなんといっても冒頭と最後だ。
そこで彼は重要なモノローグをたくされている。
闇生は、二階席の最後部から三列目にいた。
おせじにも良い席とはいえない。
それでも、ラストの長いモノローグで彼は、二階席の客たちがおもわず身を乗り出すほどに引きつけてくれたのである。
あの独白に、円熟した器用さはいらない。
むしろ、邪魔っけ。
求められるのは百戦錬磨のサオ師のテクではなく、若く、がむしゃらな何か。
野田はその可能性を妻夫木のなかに見いだして、キャスティングしたのかもしれない。
私の周囲では洟をすする音が目立っていた。
もとより注目度の高いNODA・MAP公演である。
前公演までの堤テムジンがあまりに当たっていたために、キャリアのハンデとあいまって、観客の目を否も応もなく厳しくさせているわけで。
若さのぶんだけみずみずしいが、連日の喉の酷使に相当くるしんでいるようだった。
声がつらそうだと、特にユーモラスなシーンが死んでしまう。
同情をかってしまうから。
それでも、この日はどうにか乗り切って芝居を堪能させてくれはした。
残り一ヵ月の長丁場をどう乗り切るかが心配でもあり、またこれを通過したあとの彼の成長がたのしみでもある。
ヒロイン、シルクを演じるは広末涼子。
案の定、その姿態にこのおっさんはときめいてしまったわけだが。
安定していたと思う。
意外だとおもったのは、下半身がしっかりしていること。
あのナニはそうとうジムでやっているナニ、とみた。
あたりまえか。
プロだし。
全体の印象として、初演の羽野晶紀のを参考にしているのでは、と感じた。
といっても演出している野田の想定が変わらないのかもしれないのだが。
特に、その声の甲高さ。
でもまあ、あたまの弱いモデル。もとい、モデルゆえにあたまが弱いという設定であるからして、誰が演じてもそうなるのかもしれない。
初演で羽野。
再演では深津絵里が演じた役柄である。
そのことを考え合わせると、この三人のなかでは彼女がもっとも美女役を求められることが多いのではないか。
だからか、大学教授と不倫中の女子大生で、感極まるとぴょんぴょん跳ねてしまうような役にしては、もちまえの聡明さを隠し切れてないのではと。
役柄としては、おバカとシリアスのコントラストをもっと際立たせると、もっと良くなりそうだなと。
結髪、勝村政信。
うまい。
さすが。
んなこたぁ、あたしがわざわざ言うまでもない。
結髪という役はこの芝居で一番おいしい。
もっとも学があるのにピエロ的でもあるから、俊敏な柔軟性が求められる。
初演では渡辺いっけい。
再演で古田新太が演じた。
となると芸達者でなければつとまらないことは明らかで。
観客からもそれを期待される。
彼はテムジンとシルクという二人の文盲の恋を成就させようと奔走する。
言葉に明るい彼が双方のラブレターを代筆するのだが、不覚にもシルクに恋をしてしまうことに。
美文家の知性と感受性をあわせもちつつ、おっちょこちょいという難役。
モチーフは言わずと知れた『シラノ・ド・ベルジュラック』だ。
この芝居の、
そして二カ月にもわたる公演をみずみずしく保つカナメの役でもある。
それを彼は期待通りにこなしてみせた。
しかしながら、この「彼ならばそつなくこなして当然」という観客の信頼こそが、あまたいる『芸達者』さんの難敵なんだよなぁ。
いや、ほんと。
人形、高田聖子。
華がある。
映えていたし。
だから、折り込みチラシ専門の四流モデル出身、という役柄としての『らしさ』は、どうだろう。
初演の鷲尾真知子があまりにはまっていたもので、それを引きずって観ている俺がいけないのかもしれないが。
いけないのだ。
もっと近くで観てみたかった。
フリフリ、山田まりや。
いい意味で裏切られた。
いいじゃないですか。彼女。
あたまのイイかただとは感じていたが、テレビを減らして舞台を増やしていくその求道精神に、拍手。
ほら、
テレビばっかやっていると、ねえ。
アレだから。
こんどはもっとがっつりとした役で観てみたい。
以上、つらつらと思うがままに書いてきた。
しかし、原則的に芝居というものは個人プレーが成り立たない。
だから、それぞれの役者に対しての感想が、作品への評価につながっているとは限らない。
それに、この公演は今日現在も上演中である。
そこで日々、微妙に変化し続けている。
出演者それぞれが日々改良を心がけていることだろう。
むろん客との呼吸もある。
その日の客同士のテンションが生む会場のノリもある。
それは回ごとにちがうわけで。
そんな目に見えないなにごとかの相乗効果が、出来不出来の差に現れてくるわけで。
いわずもがな、演劇の場合、観客の想像力にゆだねられるところが少なくない。
ところが、
われわれはテレビや映画の説明過多、演出過剰に日々脳みそを甘やかされている。
あたし、優しくされると弱いの。
当たり前だっつの。
誰だってそうだっつの。
となれば至れり尽くせりの楽な方へ、楽な方へとずり落ちていって当然。
結果、気がつけば想像力は『マグロ』状態。
哀れ、不感症である。
マグロ風情がおのれの不感症を棚に上げて、何が笑えるとか、笑えないとか。はたまた泣けるとか泣けないとか言っているのは、ちゃんちゃらおかしいのであーる。
と、笑ってばかりもいられない。
で、
どうすか。
たまには劇場に、どうすか。
『生』を超えるヴァーチャルはないのだし。
想像力を超えるイリュージョンもないのだし。
劇場で、
野田は今日も想像力の可能性と闘っている。
☾☀闇生☆☽