芝居は生で体験してこそ、語ることができる。
映像にはせいぜいその匂いのようなものくらいしか記録できない。
それは間違いない。
だから以下は、あくまで放映から推し測った感想にすぎない。
段田安則、富田靖子と組んだ初演版。
まず驚いたのが、先の再演(こっちは観劇済)よりもマが詰まっているということ。
おっそろしく早口である。
意味よりも、テンポを優先している。
あるいはそれは野田の若さがゆえなのか。
劇団夢の遊民社時代から、野田作劇の目まぐるしさについてはよく言われていることではある。
そして、その手の先駆者として唐十郎と比較されてもいた。
にしても、その圧倒するスピードに観客がよくついているのに驚かされる。
時代性なのか。
はたまた遊民社にどっぷりと慣らされたファンなのだろうか。
今のNODA MAPより、相当早いぞ、これは。
先年の再演では、大切な言葉遊びや単語、形容はマをおいて強調していた。
それが昨今のはやりでもある。特に笑いに関しては。
ともあれ、
この初演があって再演があの完成度になったのだなと、わかる。
特にあいだのロンドンヴァージョンが、その熟成に一役かっているのだろうと思う。
イギリス俳優はセリフを大切にするという伝統がある、というから。
あの公演で無駄が省かれ、整理され、この物語の基本形が(一旦)完成したのではないのだろうか。
野田のとんびは再演の方が幼い。
浜のみんなに「少し足りない」と言われる痴性も、強調された。
悲劇を悲劇としてとらえられない彼を強調したおかげで、そこにある悲しみと、そこから生まれる希望がはっきりした。
これらは単に、役者野田が成長した、と言えるのかもしれない。
また、赤鬼とあの女の交情も、再演のほうが感じられた。
それがゆえに『絶望』の度合いが深まった。
段田が扮する水銀(ミズカネ)も、再演でうそつきの軽薄ぶりが強調されていたように思う。大倉孝二のキャラクターを借りて。
初演で完成していない、というのは芝居にとって幸福である。
繰り返し上演してなんぼの世界なのだ。
執拗に研磨されるべき、するべき原石。
それが、この初演の価値である。
のちに古典と呼ばれるに違いない普遍性が、この作品にはまぎれもなくあるわけで。
それがゆえにロンドン、タイ、韓国と、それぞれの国の役者とそれぞれの言語で上演されているのであり。
その原点の記録という意味で、この初演は重要なのだ。
ふとシェイクスピアの初演の記録が残っていたとしたら。
そう考える。
史料的価値を別として、
ダイレクトに現代人の胸をうつものであるか、どうか。
とまあ、
なんだかんだ言っても、結局はまたラストに泣いたのであった。
☾☀闇生☆☽