壁の言の葉

unlucky hero your key

届け、声。

chipstar





 兄とは十歳。姉とは八歳はなれて生まれ落ちた。
 そんな年齢差であるから兄弟喧嘩すら成立せず、殴りかかろうが蹴ろうが、笑ってあやされるばかりで、ストレスは日々幼い胸のなかに充満するばかり。
 なんせ彼らが思春期を謳歌しているころに、こちらはようやっと保育園なのだ。
 くわえて彼らは戯れに弟に負けてやるということをしなかった。
 腕相撲であろうが容赦が無い。
 将棋でもやろうものなら、


「桂馬の馬鹿っ跳び」


 そう罵られ、文字通りの裸の王様にされての生殺しである。
 そんな日々に、がきんちょの私のプライドはがきんちょなりに傷ついてしまうことになる。
 おかげで正面からでは到底勝てないと、頭を使うことをおぼえた。
 チップスターの缶に、日ごと夜ごとに屁を溜めて、寝ているその鼻に見舞ったこともあった。
 圧政に苦しんだ挙句のテロリズムである。
 しかし、気密性という概念が、幼い私にはそもそもなく、思いのたけを込めたガスがいつの間にか雲散霧消してしまっていたことまでは気づけなかった。
 言うまでも無くストレスは屁のようには消え去らない。
 チップスターの赤い筒は、子供の復讐をかなえる親切までは持ち合わせていない。
 仰臥している姉の上に全体重をかけて飛び降りたことがある。
 今度はりんごの法則を味方につけたのだ。
 けれど、それもむなしく足だけでかわされ、ばかりか笑われる。
 弟がじゃれてきた、としか解釈されない。
 ムキになって繰り返しながら、どうにかして一矢報いようと、より高く跳ぼうとする。
 その結果、勢い余ってしまった。
 なけなしの上昇志向が暴走したのだ。
 布団の上の姉にではなく、窓枠へ前歯から着地した。
 幼いわたしの全体重が、その瞬間、三本の前歯に預けられた。
 血まみれになった。
 はからずもテロは完遂せず、むなしく自爆で終息した。
 わたしは己の無力を思い知った。
 非力を憎んだ。
 そして姉を、呪った。
 我がストレスはついに八方ふさがりとなり、あげく、姉への怨嗟の言葉として柱に書き記されたのである。
 鉛筆で。
 あられもなく直球に。
 ケツの青さに反して赤裸々にだ。
 木の窓枠にはそのときの歯形が三つ残ったが、柱の言葉には姉も、また家族の誰一人として気づけなかった。
 時が経ち、今なら幼い弟のいじらしさと一笑にふしてくれるに違いない。そう思って先年告白したが、柱の文字を見つけた姉はあからさまに落ちていた。


 がっつりと。


 してやったりである。
 三十年前のリベンジ精神が、時を経て花を咲かせた瞬間である。
 なるほど情報は流れ去らない。
 流れているのは時間に抗えない我々の方だ。
 幼き私の罵倒の言葉はずっとその柱にとどまって、流れていく我々を虎視眈々と眺めていたのである。
 思えば実家の柱に悔し紛れに書いたあの言葉が、私の表現の第一歩だった。
 あっぱれ、幼き日の俺。
でかした。


 このように八方ふさがりが生んだ言葉というものは、時として力をもつ。
 たとえば廃墟となった病院の壁。


「我々は脳にアンテナを埋め込まれ、日々国家に操られている」


 そうらしい。
 むろん解せない。
 解してなるものか、とまで思う。
 が、逃げ場のない熱い気持ちだけは、わかる。
 あるいはガード下の小便臭いコンクリートの壁面。
 黒マジックででかでかとこう書きなぐってあった。


「東野さんの上ばきかいだの石川」


 知らなかった。
 むろん個人名は仮名に変えさせていただいたが。
 その上ばきを嗅がずにはおれなくなるほどの東野さんへの思いのたけを、石川の純粋行動に垣間見る。
 純粋すぎて、はみ出してしまったのだ。
と同時に、それをわざわざ往来の人々に告げずにはおれなかった名も無き執筆者の屈折を、思う。
 告げ口できる友もなく、壁に頼るしかなかったその孤独。
 そしてきっとお前も密かに東野さんへ好意を寄せていたにちがいないことを、彼女への「さん」付けと石川への呼び捨てに、知る。
 ついでにヒロイン東野さんのさん付けされて然るべきその素敵に、想いをはせる。


 壁。


 これらは壁に記された、非力なるものの声である。
 『言葉の壁』はコミュニケーションを分断する。
 が、『壁の言葉』は、分断された知らないもの同士を、きっとつなげる。
 少なくとも、そう信じて記される。
 言わずもがな言葉は過去からしか届かない。
 未来にだけ届くわけで。
 とどのつまりが、なんだろう。


 そういうことだ。


 だから身のたけを未来側に越えた思いのたけを、人知れずに書き殴る。
 届け、届けとしたためる。
 いつ届くのかわからないのに。
 いや、永遠に見向きもされないのかもしれない。
 いいんだ、いいんだ。
 それでも届くと信じて書くのだ。
 書かずにはおれんのだ、という欲求。業。
 現在の私も、あの幼き日となんら変わらない。
 姉への罵倒を柱に書き付けたあのうじうじを、今も続けているのに過ぎない。
 私の書き綴る言の葉が、あなたの胸をほんのわずかでも引っかくことができたなら、幸いである。
 いや、いつかきっともみもみできる。
 せめてつんつん。
 すくなくともこちょこちょするぐらいはできるだろうという確信がなければ、ものなど書けるわけがない。
 そして今、私はここにささやかな壁を得たわけだ。
 挨拶が遅れた。
 はじめまして、からはじめます。
 闇生(やみお)と申します。
 すまん。
 で、
 さっそく書かせてもらう。
 幼少期の私がちびた鉛筆で柱に記した言の葉。
 一言目はそれに決めていた。


みーやのばか


 届け、声。