壁の言の葉

unlucky hero your key

におい。

 

 自作小説で苦い思い出といえば、近しいひとへ感想を求めたときのことですな。
 公募で落ちたこともあるし。
 また、その編集からの論評が日本語として理解に苦しむものだったこともある。
 どちらも面白くない記憶ではあるが、それほどつらいものではなかった。
 痛いのは、近しい人からのだ。
 感想文をいただいたこともあるし。
 なかには良い点、悪い点にわけて丁寧に箇条書きしていただいたお方もおられる。
 左ページにグッドポイント、
 右ページにバッドポイントと題したノートを用意してペンを片手に読み始められた。
 なにこの上からの態度、とは思ったが、ありがたし。
 しかしどれも職場の先輩後輩、年齢の上下関係がからむのでそのパワー関係上、参考にはならなかった。
 褒められればおべんちゃらに聞こえてくるし、
 貶されれば、それはたいがい作品そのものへの批判ではなく、
 作品を普段のあたしの趣味や好みの反映とみなしてのことだった。
 職場関係の延長としてマウントをとりたがる人もいた。


 大概において感想というものは上からのたまわれる。
 また、上からのたまいたいがゆえに感想をいいだかる人も少なくないことを痛感した。
 
 
 もっともつらかったのは、
 仕事の用事ついでに午前中に原稿をお渡しして、その午後にまた別の用事で顔を合わせたとき。
 相手は後輩バイトの絵描き。
 ぶしつけに登場キャラクターの名前を出して、
「結局、そのキャラクターは死ぬんですか?」
 とやられた
 渡したのは長編だったので、
「もう読んだの? どのあたりまで?」
 と問い返すと、まだだという。
 一行も読んでいないと。
「ぱらぱらっとめくって目についた名前だったから」
 と言いながら、卓上の原稿をパラパラ漫画を見るときのようにもてあそんだ。
 つづけて、
「〇〇て、オスなんですか? メスなんですか?」
 てか読めよ、と思ったが愚弄している態度でもない。
 すっっっっごく真剣な表情で聞いてくる。
 ガツガツしてる。
「先にオチを知って読んでおもしろい?」と訊くと、
「先に知っておきたいタイプなんですよ。暗い話だったらいやだし」
 なんで自分から読ませてくれなどと言ったのだろう。 
 彼は絵描きであり、
 頻繁にその作品を見せてくれてもいて、
 あたしもその感想を言ってきたので、つい話の流れでそうなってしまったのか。
 しらんが、原稿は穏便に引き取らせていただいて帰った。


 同じ物書き(描き)として、作り手の気持ちを共有できると考えた自分の浅はかさを思い知った次第。
 知らずに傷のなめ合いをしようとしていたのだな。あたしは。


 もうひとつ。
 仕事で知り合った洋服のデザイナーさん。
 専門学校で教鞭もとるお方。
 映画の話があうので、よく家に招かれて映画の感想をやりとりして過ごしたりした。
 あるときあたしが小説を書くと知るや原稿を読ませてくれと。
 歯に衣着せぬ男勝りな女性で、
 弟子たちを大勢ひきつれて「ついて来い!」とクラブを遊び歩いたりするようなお方なので社交辞令ではなかろうと。
 よせばいいのにあたしもお人よしで、いそいそと持ち寄った。
 長編なので感想はまた後日ということにして。
 で数日後、読み終えたからその感想をいいたい。遊びに来いと。
 むろんお宅へお邪魔した。
 
 応接室に通されて彼女が淹れてくれるコーヒーを待った。
 テーブルには預けておいたあたしの原稿がある。 
 やがて淹れたてのコーヒーを持って彼女があらわて、
 そのコーヒーカップをでん、と原稿のうえに置いた。
 つづけてケーキをのせた小皿もそこへ置いた。
 さながらテーブルマット扱いである。
 そしてその状態で感想を熱く語られたのである。
 しかもべた褒めしていただくという、混乱状況。
 つまり悪気は微塵もないのである。
 彼女がトイレにたった隙をみて、そっと原稿は回収。
 やはり近しい人に感想を求めるのはよろしくないと確信する。


 スティーヴン・キング村上春樹も、もっとも近しい批評家をその妻としている。
 なるほど、
 運命共同体であるからして、おべんちゃらは言わないだろう。
 褒めるにしても肚を据えてほめてくれることだろう。
 そして春樹は(たしかキングも)妻に感想を仰ぎながら、具体的な文章への指摘などには耳を貸さないとする。
 知りたいのは「なんかこのあたり変」「なんかここ好き」という『嗅覚』だ。
 抽象的でありながら、それが実はもっとも大切な反応だと思う。
 小説は膨大な言葉の集積によって言葉では言いあらわせない『何か』を探る行為だと思う。
 たとえば建築のようなもので、
 そこにつぎ込まれる柱や壁材などの膨大な資材が住居の本質なのではなく、それによって生み出された『空間』こそが住まいだろう。
 感想とはその「言葉ではあらわし難い何か」を言葉へ変換しようとする行為で、達成は土台無理なのである。
 意味があるとすれば、自分が何を感じたかという自問自答の行為。
 そしてその『何か』を反芻すること。
 これこそが大切。


 よって、感想や反応を欲しがるのは書き手の哀しき業であって。
 しかし感想に的確に言い当てられることもありえないというジレンマに作り手は襲われる。


 で、この嗅覚なのだけれど。
 口臭や体臭を察知するようなものではないかと。
 ゆえに作者がその世界に没入すればするほどに自覚できなくなってくるのではないかと。
 むろん臭いがすべてダメなわけではない。
 完全に消えてしまっては、人間味も個性も色気もない。
 で、それを的確に嗅ぎ取る嗅覚をもち、なおかつそれを当人に言える関係性のひととなれば、それは赤の他人か。
 もしくは、生涯の伴侶や親友といった関係性になるのだろう。


 おまえ、口くさいよ。
 君のこの匂い、好き。


 物を書くのは孤独な作業で、孤独を嫌う人には向いていないと思う。 
 とはいえ完全に孤立した独りになってしまうと、その孤独もこじらせてしまう。
 これが厄介なのね。
 自分の匂いも自覚できなくなる。
 

 以上は、モノカキ界隈のいわゆる闇堕ちについて考えるときにいつも頭に浮かぶこと。
 作家同士が匿名で投げ合う言葉のなぐり合いを見て、いつもそう思う。
 あれにはほぼほぼ意味がなく、悪循環だ。
 生産性はひとつもない。
 炎上商法にすらならない。
 仮に感想で論破したとしても、得られるのは一瞬の優越感だけで、勝者はいない。
 ましてや自分の作品も良くはならない。



 というわけで、 
 嗅いでみてください。あたしのオイニーを。
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 ☾★闇生☀☽
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