人は絶望する、という。
そして途方に暮れるという。
では「絶」たれてしまった「望」みとは、そもそもなんであったのか。
それは、遠くへの「眺め」である。展望。
その視界を絶たれたわけだ。
それを「壁にぶちあたる」という。
ようするに眺めを絶っていたのは壁なのである。
壁とは何かと何かを隔てるものだ。
たとえばそう、人種の壁。
言葉の壁。
では、
壁の言葉はどうだろう。
そこに記された言の葉は、誰かにむかって運動する。
つながろうとする。
それは絶対的だ。
いうまでもなく言葉は過去へは届かない。
絶対的に未来へのみ、いつかそれを目に留めるであろうまだ見ぬ誰かに向かって突き進む。
とどのつまり言葉は、そして意味は過去からのみ届くのだ。
過去に耳を澄ませ。
そして未来に言葉を紡ぎだせ。
ほら、絶望の壁に取り囲まれて、たとえ進退ままならなくなったとしても、言葉だけは動かせる。
澱まなければ腐らないのだ。
あなたの意識に、水のように流れを生むことができる。言葉の力で。
ならば、本当の「絶」「望」とは、言葉すら絶った密閉状態ということだろう。
それは、自ら進んで作らない限りできない話なのである。
往々にして絶望というものは自分で作り出しているものなのである。