『本へのとびら』感想。

 宮崎駿著『本ヘのとびら   岩波少年文庫を語る』岩波新書 読了

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『本へのとびら』

 好きな本は。
 影響を受けた本は、と問われたとき、つい大人というものは読書遍歴の枠から児童文学や絵本を取り除いてしまうもの。
 物心ついて、分別がある程度つくようになって、頭でっかちになってから以降の読書体験からサーチして、そして時にちょっぴり見栄も張って選出したりするのではなかろうか。
 けれど、その物心や分別の根っこには、幼少期に形成された情操というものがあるわけで、その形成に影響をあたえたものこそが重要で、その多くは紛れもなく児童文学であったろうと。
 あるいは、大人になってからあらためてムーミンを読んで、理屈の外にある何事かを感じとることも珍しくないわけで。
 それでもそれを感受したのは、少年の頃にさまざまな体験や読書経験によって育まれ、摩耗されずに残ったセンサーのおかげ。
 そこでふと思う。児童文学とはなんぞやと。
 そのジャンル分け自体に異議がなくもないし、そういう仕分けでもしも本屋の棚が仕分けされているのだとすれば、迷惑な話ではないかとも思ふ。
 


 ただし覚えておかなくてはならないのは、
 たとえば辻原登が「ドストエフスキーは20歳までに体験しなくてはならない」と主張するように、ある年齢までに経験しなければ作用しない毒、もしくは薬効というものが本にはあるということ。
 その意味において児童文学という仕分けは、決して『幼稚なもの』ということではなく、子どものうちに体験しておかなくては損するよ、というスペシャルな格付けであるととらえることができる。
 ニヒリズムに浸りきったあたまでっかちの、すれっからしの大人になってからでは、愉しめませんよということだ。


 この本は、宮崎駿が岩波の少年文庫から50冊を選出するという企画によるもので、その作品ひとつひとつの選出理由と推薦コメントが紹介されてある。
 挿絵の妙や、訳者など実に細かく考察し、感銘し、妄想し、自分が影響をどれだけ受けたかを感謝した文章は、実に気持ちがよい。
 そして、児童文学を現代に伝えていく意義を、熱く語ってもいる。
 しかしまあ、50冊だ。
 とてもとてもそんなに読んでいないな、あたしは。


 佐藤さとるの『誰も知らない小さな国』はハードカバーの単行本が実家にあって、夢中で読んだ。
 村上勉の挿絵も大好きだった。
 のちに矢野顕子のアルバム『ト・キ・メ・キ』のジャケットでこの絵のタッチに再会したりして。
 何年か前に思い出し、ソフトカバーのもので買い直したが、どこかよそよそしく感じた。大人になってしまった自分は、暴走する近代化に抗おうとする主義主張を嗅ぎ取ってしまっていたのである。
 それと、斎藤惇夫の『冒険者たち ガンバと十五匹の仲間』。
 八つ上の姉に勧められたのだが、当時アニメ版に夢中になっていたので、表紙のリアル鼠の絵に抵抗を感じた。
 有体に言ってかわいくない。
 けれど、夏休みの終わり、読書感想文を書く必要から嫌々ながらも読み始めてみれば、最後は滂沱で読み進めなくなるという事態でござった。


 閑話休題
 岩波というくくりで選出している。
 それも海外のものがメイン。
 あたしゃ独身だが、子を持つ親になった元子供たちにこそこの本はガイドブックとなるやもしれぬ。
 子どもに買い与える目安ともなろうし。
 ついつい親の方が夢中になってしまうかもしれない。
 大人になって読書が楽しみのためではなく実利のため、ためになる本ばかりを探すようになってしまう。
 なんとあさましいことか。
 けれど、児童文学こそは、わくわくで読んでオッケーではないのかと。
 楽しいから読む。それが重要なのだ。
 著者も書いているが、今後戦うべきは自身のなかに巣くうニヒリズムである。
 これが何につけても厄介なんだ。
 児童文学はその免疫づくりに一役も二役も買うことでしょう。





 闇生